『写真週報』には、満鉄(南満州鉄道株式会社)の鉄道総局の広告が多数掲載されています。

 満鉄は、日露戦争の結果日本がロシアから獲得した中国東北部の鉄道利権等の経営のために設立された国策会社で、鉄道経営のみならず炭鉱・製鉄所経営、鉄道付属地経営、調査研究事業など広範な活動をおこなっていました。その後昭和7年(1932年)の満州国の成立に伴う鉄道付属地返還などを契機に改組がなされる中で、昭和11年(1936年)には満鉄所管の鉄道業務を総括する鉄道総局が設置され、その活動は鉄道経営に特化していきました。上に掲げられた満鉄鉄道総局の「満州」旅行を宣伝する各広告には、「内地」(日本本土)・朝鮮からの往復・回遊の汽車賃の割引率などが記されています。この中でも特に20人以上の団体や学生団体については「五割引以上」とされている点が注目されます。

 こうした条件の下で、1930年代には日本本土から「満州」への修学旅行がさかんに行なわれており、昭和13年(1938年)には「満州」を訪れた日本人団体客311団体16388人のうち、213団体14024人を修学旅行の団体客が占めていました(高媛「戦前における「満洲」への修学旅行」17頁)。


 アジア歴史資料センターが提供している歴史資料の中には、この時期の「満州」への旅行に関するものも複数含まれています。

 資料1は、昭和13年(1938年)7月大阪外国語学校(後に大阪外国語大学、現在は大阪大学外国語学部)の「支那語部及蒙古部有志者」を対象におこなわれた修学旅行の日程表です。この資料には7月20日に大阪を出発してから8月17日に神戸に到着するまでの旅程が詳しく記されています。


 資料2は、この旅行にかかった費用を報告した文書です。



     
 満鉄鉄道総局の広告には、以上のように「満洲」の「開拓」を強調したものも見られます。日本人の「満洲」への移住を進めようとする動きは、満州事変後活発化し、昭和7年(1932年)10月には拓務省による三江省佳木斯(チャムス)への第1次武装移民団の入植がおこなわれました。

 資料3は、この入植から約半年後の昭和8年(1933年)4月の「佳木斯屯墾隊」の近況に関する文書です。

 資料4は、この後昭和10年(1935年)に拓務省が第4次移民を募集した際に、陸軍省に協力を依頼した文書です。この文書に付された「第四次満洲農業移民募集要項」(8画像目〜15画像目)や「第四次満洲農業移民候補者選定に関する内規」(16画像目〜20画像目)からは、予定されている移住の方法や補助の条件、また選定の際の基準などがうかがえます。

 資料5は、昭和11年(1936年)3月に拓務省がそれまでの「満洲」への移民の状況をまとめた『満洲農業移民概況』という冊子です。



 

Japan Center for Asian Historical Records