5. 台湾での戦闘 : 台湾総督府と台湾民主国~戦争の終結
日本軍の澎湖島上陸
明治28年(1895年)3月23日、台湾島の西方約50kmに位置する澎湖島に、日本陸軍の部隊が上陸を開始しました。日清両国の全権代表による講和会議が下関で開始されてから3日後のことでした。
日本の大本営では、1月中から澎湖島への軍隊派遣の準備が進められていました。海軍の連合艦隊と共に、陸軍部隊も派遣することが決定され、2月1日にはそのための混成枝隊(支隊)が編制されています(→関係公文書①)。混成枝隊の主力部隊は、3月8日に広島の宇品港を出発、翌日には下関で残りの部隊と合流すると、佐世保港で海軍連合艦隊司令長官の伊東祐亨海軍中将の指揮下に入り、艦隊と共に台湾方面に向かいました。これらの部隊は、3月20日には澎湖島の沖合に到達し、偵察の上で上陸地点を島の東南部に決定すると、23日、連合艦隊の沿岸砲台への攻撃と、陸軍部隊の上陸作戦を開始しました。
日本軍は上陸を終えた部隊から順次、澎湖島の中心地である馬公方面に向かいます。これに対し清国の守備隊も迎撃を行い、激しい戦闘が行われました。24日には、艦隊による援護の砲撃を受けながら日本軍部隊が馬公の攻撃を開始し、深夜には清国軍が降伏を申し出たことで馬公は陥落しました(→関係公文書②)。
なお、馬公での戦闘中、日本軍部隊の内部ではコレラに罹る人々が続出しました。澎湖島に上陸した時点では健康であった兵士や軍夫たちが、戦闘が始まるや突如コレラを発症、これがたちまちのうちに部隊内に蔓延すると、治療にあたる人員や薬品が不足する中、1日で死に至る例も少なくなかったといいます(→関係公文書③)。馬公が陥落し澎湖島を占領した後も病の勢いは止むことがなく、ようやく勢力が衰えてきたと判断されたのは4月の半ばになってからでした。この時点で、罹患者の総数は約1,700名、うち死亡者数は約1,000名に上ったとされています(→関係公文書④)。その後も日本軍は、マラリア、赤痢、脚気といったさまざまな病気に苦しみ続け、結果的に、日清戦争開戦以来の一連の戦闘における戦死者(将兵のみで約1,400名といわれます)の数倍に及ぶ戦病死者(将兵のみで約11,900名といわれます)を出すこととなります(原田敬一『戦争の日本史19 日清戦争』,吉川弘文館,2008年,279,283頁.)。
台湾の人々の動きと「台湾民主国」
この当時の台湾は、清国の領地(福建省の管轄下)とされており、福建省や広東省をはじめとする大陸側の清国本土から移ってきた多くの漢人の住民と、台湾先住民とが生活していました。19世紀半ば以降、アロー戦争(第二次アヘン戦争)(1856年~1860年)の際にイギリスやフランスの要求によって台南が開港されるなど、欧米諸国の影響が台湾に及ぶようになったことから、清国政府は1885年に新たに台湾省を設置し、漢人の巡撫(省の行政長官のこと)により台湾を統治する制度を整えていました(→関係公文書⑤)。
日清戦争において、清国軍の劣勢が明らかになってくると、清国政府は、日本が講和の条件として台湾の割譲を要求してくる可能性が高いと考えるようになります。この要求を受け入れるべきか否かについて政府内でも意見が分かれている中、こうした状況を知った台湾巡撫の唐景崧は、日本から割譲の要求があったとしてもこれを拒否するように政府に申し入れました(許世楷『日本統治下の台湾 抵抗と弾圧』,東京大学出版会,1972年,14頁.)。しかし、清国政府は、1895年4月17日に、台湾と澎湖島の日本への割譲が盛り込まれた日清講和条約を日本政府との間で調印、これによって台湾を日本の領地とすることを正式に認めることとなりました。
台湾では、清国政府から派遣されていた漢人官僚や、この地に定着していた漢人の民間有力者たちによって、日本への台湾割譲に強く反対する動きが起こります。こうした人々は、5月23日に、台湾を「台湾民主国」という1つの国家として独立させることを宣言しました。その後、唐景崧がこの国の指導者である総統に就任(5月25日)、「永清」という元号や国旗が定められたほか、国家としてのさまざまな機構や制度も整えられていきました。また、その軍隊は、漢人の官僚や将軍の指揮下にあった旧清国軍部隊から成っていましたが、やがては、漢人の住民たちによって組織された義勇兵が、日本軍との戦闘の中心となっていきます(大谷正『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像』,中央公論新社,2014年,226頁.)。
欧米諸国は、日本への台湾割譲について干渉を行うことも、台湾民主国の独立の動きに対してこれを承認することもありませんでした。このため、台湾民主国は、国際社会からの支援を受けることのないまま日本軍と戦うことになりました。
台湾での戦闘のはじまり
日本政府は、日清講和条約に基づいて清国から台湾の割譲を受けるにあたって、台湾を統治するための新たな機構を整備します。明治28年(1895年)5月10日、台湾における日本の統治機構の長である台湾総督に、樺山資紀海軍大将(この時中将から昇進)が任命されました。そして、台湾総督の下に台湾総督府が設置されることになります。総督府が置かれ、日本による台湾統治の拠点とされたのは台湾北部の台北でした。
5月24日に宇品港を出航した樺山総督と台湾総督府の構成員は、沖縄で近衛師団と合流すると、5月29日には台湾島東北部の三貂角と呼ばれる岬への上陸を行いました。台湾で割譲に対する非常に強い反発が起きていたことから、日本側では、台湾統治に取り掛かるには軍事力を用いることが必要と考えていました。
6月2日、下関の講和会議で清国側代表の一員(欽差全権大臣)を務めた李経方が、清国政府の全権委員として基隆の沖に到着しました。樺山総督と李全権は同日中に船上で会見し、日本への台湾の引き渡し手続きが行われました。その後、日本軍は6月5日に基隆を占領、続いて6月6日には台北に入城しました。そして、6月17日に、台湾総督府が台北城内で「始政式」を執り行い、台湾が日本の領土となったことを宣言しました(→関係公文書⑥)。
一方の台湾民主国軍は、上陸してきた日本軍に対し、三貂角や基隆で攻撃を繰り返しましたが、その動きを止めることが出来ませんでした。このような状況を前に、台湾北部で軍を指揮していた唐景崧総統をはじめ、台湾民主国の一部の指導者たちは、6月6日に相次いで台湾を脱出して清国本土へと向かいました。これによって、彼らの指揮下にあったかつての清国兵による台湾民主国軍の統制は崩れ、日本軍の台北入城は戦闘なくして行われることとなりました(→関係公文書⑦)。
これ以降は、住民たちによる義勇兵と日本軍との間で戦闘が行われるようになっていきます(許世楷『日本統治下の台湾 抵抗と弾圧』,東京大学出版会,1972年,49頁.)。また、唐総統に代わって台湾民主国とその軍の指導的立場に立ったのは、清仏戦争(1884年~1885年)などでの働きにより人々から強い支持を受け、それまで台湾民主国軍の大将軍という立場にあった劉永福でした。劉将軍は、自身は台湾南部西岸の台南を拠点としつつ、各地で起きる日本軍との戦闘を指揮していきます。
戦線の南下
樺山資紀台湾総督は、台北を占領し、制度的には台湾総督府による統治を開始したものの、台湾の人々の反発が未だ大きいため、本国に部隊の増派を求め、台湾民主国の拠点となっていた台南のある南部に向かって攻撃を進めていきました。
台北の西南、台湾北部西岸に位置する新竹では、中部を守っていた旧清国軍部隊のほか、多くの義勇兵たちが集結しており、6月20日には進軍してきた日本軍部隊との間で戦闘が起きました。6月22日には日本軍がひとたび新竹に入りましたが、これを義勇兵の部隊が包囲するかたちになると、しばらくは台北から新竹にかけての一帯で激しい戦闘が続きました(→関係公文書⑧)。しかし、7月25日には日本軍が新竹一帯を占領するに至りました。
その後も日本軍は南下を続け、各地で戦闘が起きましたが、台湾中部西岸の都市であり台湾民主国の中部における軍事拠点の1つであった彰化も、8月29日には日本軍の占領下に入りました(→関係公文書⑨)。彰化の戦いは、台湾民主国側にとっては、日本軍の進軍を阻止するために大きな戦力を注いだ戦闘でしたが、多くの犠牲を出し、残った兵力も後退せざるを得ませんでした。しかしその一方で、日本軍もまた相次ぐ戦闘で消耗が大きくなっており、この戦闘の後に休養と兵力補充のために進軍を一旦停止させることになります。
台南の陥落と台湾民主国の崩壊
彰化での戦闘の際に退却した台湾民主国の諸部隊は、さらに南の内陸部、彰化と台南のほぼ中間に位置する嘉義を次の拠点とし、周辺各地の義勇兵とも連携しながら、彰化に留まる日本軍への攻撃を繰り返しました(原田敬一『戦争の日本史19 日清戦争』,吉川弘文館,2008年,279頁.)。
一方の日本軍側では、さらに南下し、劉永福将軍が留まり台湾民主国の拠点となっていた台南を攻撃・占領することを目的として、9月16日、樺山資紀台湾総督が南進軍の編制を指示しています。これまで戦闘を続けてきた近衛師団に、基隆方面にあった混成第4旅団、遼東半島にあった第2師団を加えて編制を終えた南進軍は、10月に入ると各部隊が陸海からそれぞれ台南方面に向けて進軍を再開しました(→関係公文書⑩)。
10月9日、嘉義を拠点としていた台湾民主国の部隊に対し、彰化から陸路を南下してきた日本軍の近衛師団が攻撃を開始、この日のうちに嘉義は陥落しました(→関係公文書⑪)。
この翌日の10月10日から11日にかけて、日本軍では、混成第4旅団が布袋嘴と呼ばれる台南の北西(澎湖島の対岸辺り)に位置する港への上陸を、第2師団が台南の南東方向に位置する枋寮の西方の海岸への上陸を、それぞれ開始します。一方の台湾民主国では、これらの上陸地点に備えられていた砲台などを用いて日本軍を攻撃、日本軍では海軍の艦隊による砲撃も加え、激しい戦闘となりましたが、やがて台湾民主国の部隊はいずれも撤退するなどし、日本軍の2つの部隊は上陸を終えました。嘉義にあった近衛師団の更なる南下と共に、日本軍は3方向から台南に向かいます(→関係公文書⑫)。
日本軍による攻撃を前に、これまで台南に留まり、台湾民主国及びその軍の指導的立場にあった劉永福将軍は、10月19日の夜間にこの地を脱出、翌日には清国本土の厦門へと渡りました。これによって、台南にあった旧清国軍の部隊はまとまりを失ったため、10月21日、日本軍の第2師団の一部が、戦闘を行わずして台南に入城することとなりました。
翌日の10月22日には、南進軍の司令部も台南に入り、この地は日本軍の占領下におかれることとなりました。残存していた旧清国軍部隊は投降し、間もなく清国本土へと送還されました(原田敬一『戦争の日本史19 日清戦争』,吉川弘文館,2008年,280頁.)(許世楷『日本統治下の台湾 抵抗と弾圧』,東京大学出版会,1972年,56頁.)。こうして拠点であった台南が陥落し、指導者も失った台湾民主国は、体制が事実上崩壊し、組織的な動きは途絶えました。そして、11月18日、樺山台湾総督によって、台湾の平定を宣言する報告が行われました(→関係公文書⑬)。
明治30年(1897年)11月1日には、改めて台湾総督府の仕組みを定めた台湾総督府官制が施行されました(→関係公文書⑭)。これ以降、約50年間にわたって、台湾では日本による統治が行われることとなります。