関連用語集
伊東祐亨(いとう・すけゆき/いとう・ゆうこう)
- 天保14年(1843年)‐大正3年(1914年)
- 幕末から明治末期にかけての日本の軍人です。幕末期の薩摩藩で英語教育を受けた後、幕府の神戸海軍操練所に入り、勝海舟や坂本竜馬の下で学びました。やがて戊辰戦争で薩摩軍の一員として幕府軍と戦い、そのまま新政府軍の海軍軍人となりました。早くから様々な軍艦の艦長を務めた後、明治19年(1886年)に海軍少将、明治25年(1892年)には海軍中将に昇進し、横須賀鎮守府長官、続いて常備艦隊長官に任命されます。明治27年(1894年)に日清開戦に先立って初めて連合艦隊が編制されるとその司令長官に就任し(常備艦隊司令長官との兼任)、黄海海戦、威海衛の戦いなどで清国艦隊と戦火を交えました。明治31年(1898年)に海軍大将に昇進、間もなく軍令部長となると、日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))では大本営の一員として日本海軍の指揮をとりました。日露戦後には元帥となっています。
伊藤博文(いとう・ひろぶみ)
- 天保12年(1841年)‐明治42年(1909年)
- 幕末から明治末期にかけての日本の政治家です。幕末期の長州藩で吉田松陰の教えを受け、尊皇攘夷運動に加わった後、いわゆる「長州五傑」の1人としてイギリスに留学しました。帰国後には下関戦争(文久3年(1863年)~4年(1864年))を経験し、一時は高杉晋作と行動を共にしました。その後、英語の能力を買われて明治政府において様々な役職に就きましたが、初代工部卿時代には特命副使として岩倉使節団に参加し、大蔵卿(後に内務卿)の大久保利通との交流を深めたことを通じ、政府内の指導者の1人として重要な位置を担うようになりました。その後は明治天皇から憲法調査を命じられて渡欧、ドイツなどの制度を学んで帰国した後、日本の内閣制度の成立や大日本帝国憲法の制定(明治22年(1889年))を中心的に担い、明治18年(1885年)には初代内閣総理大臣に任命されました。日清戦争の際にも総理大臣(第二次内閣)として政府を主導し、全権弁理大臣として講和会議に出席、清国との交渉を担い日清講和条約に調印しました。日露戦争を経て、明治38年(1905年)に初代韓国統監に就任しましたが、当初は日韓併合には反対していたと言われます。明治42年(1909年)にハルビン駅で朝鮮の民族運動家によって射殺され、その翌年には日韓併合が行われました。
大島義昌(おおしま・よしまさ)
- 嘉永3年(1850年)‐大正15年(1926年)
- 幕末から大正期にかけての日本の軍人です。長州藩士として戊辰戦争に従軍しました。明治期に入ると陸軍軍人となり、西南戦争にも出征しました。その後、東京鎮台参謀長、第1師団参謀長などを経て、明治24年には陸軍少将に昇進、歩兵第9旅団長となりました。明治27年(1894年)に朝鮮で甲午農民戦争が勃発すると、6月の最初の出兵の際に第9旅団を率いて漢城に派遣され、日清戦争開戦後に第1軍第5師団に組み込まれると、平壌攻撃、鴨緑江渡河、牛荘攻撃などの多くの戦闘に参加しました。その後は日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))への出征を経て陸軍大将となり、戦後には南満州経営のための関東総督(まもなく関東都督に改編)、軍事参議官などを務めました。
大鳥圭介(おおとり・けいすけ)
- 天保4年(1833年)‐明治44年(1911年)
- 幕末から明治期にかけての日本の軍人、官僚、外交官です。幕末期に、漢学、儒学、兵学に加え、蘭学、西洋医学も学んだほか、ジョン万次郎のもとで英語の教育を受けました。やがて幕府にとりたてられて軍の育成に携わりましたが、戊辰戦争の際には函館で榎本武揚と共に新政府軍に捕らわれました。出獄後に明治政府に出仕して開拓使御用掛や大蔵小丞となり、大蔵小丞のとき欧米各国を歴訪しました。その後、工部大学校長、元老院議官、学習院長、華族女学校長を経て外交官となり、明治22年(1889年)に駐清国特命全権公使となりました。明治26年(1893年)には駐朝鮮特命全権公使を兼任して朝鮮の朝廷における政争ともかかわり、翌年の日清開戦に至る外交交渉の担い手となりました。開戦後まもなくして枢密顧問官となり、外交の舞台を離れました。
大山巌(おおやま・いわお)
- 天保13年(1842年)‐大正5年(1916年)
- 幕末から大正初期にかけての日本の軍人、政治家です。薩摩藩士として戊辰戦争に従軍しました。明治期に入ると陸軍軍人としてフランスに留学し普仏戦争の視察などを行って帰国、間もなく陸軍少将に昇進しました。再度のフランス留学の後、明治10年(1877年)の西南戦争では従兄にあたる西郷隆盛と戦火を交えました。その後、明治13年(1880年)から明治18年(1885年)まで陸軍卿を務めると、続いて第1次伊藤博文内閣で初代の陸軍大臣に就任し、以降各内閣においてこの職を務めました。日清戦争では陸軍大将として第2軍を率い、遼東半島上陸から旅順攻撃に至る作戦を指揮しました。明治31年には元帥府が設置されると同時に元帥となり、日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))では、満州軍総司令官として児玉源太郎総参謀長とともに戦争を指導しました。戦後、戦功により侯爵となり、生涯に渡って陸軍で大きな影響力を持ち続けました。また、晩年には内大臣も務め、葬儀は国葬によって執り行われました。
樺山資紀(かばやま・すけのり)
- 天保8年(1837年)‐大正11年(1922年)
- 幕末から大正期にかけての日本の軍人、政治家です。薩摩藩士として薩英戦争、戊辰戦争に従軍しました。明治期に入ると陸軍軍人となり、台湾出兵に参加、明治8年(1875年)の江華島事件では、黒田清隆弁理公使の随員として朝鮮に赴いています。西南戦争では、熊本鎮台参謀長として熊本城の防衛を担いました。その後陸軍少将に昇進し、大警視(後に警視総監)を兼任しますが、明治16年(1883年)に海軍に転じ、海軍大輔、海軍次官を経て、明治23年(1890年)から2つの内閣で海軍大臣を務めました。明治27年(1894年)の日清開戦直前に海軍軍令部長となり、戦争中は海軍の作戦の立案を指揮しました。日清講和条約締結直後に海軍大将に昇進すると同時に初代台湾総督に任命されました。約1年間の台湾総督職を最後に軍務を退き、以降は、枢密顧問官、内務大臣、文部大臣などを歴任しています。
金玉均(きん・ぎょくきん/キム・オッキュン)
- 1851年‐1894年
- 李氏朝鮮末期の政治家です。1872年に科挙文科に合格して官職に就き、やがて開化思想を持つようになりました。1882年には日本を訪れて福沢諭吉と親交を結び、以降数回日本を訪れました。当時、閔氏政権が清国への依存を重視する政策をとるようになっていたのに対し、清国とは距離をとり独立国として近代化を進めようとする開化派の中心人物の1人となり、1884年に甲申政変を起こして政権の奪取を図りました。しかし清国の介入によって政変が即座に失敗に終わると日本に亡命し、その後10年間日本各地を渡り歩きました。1894年3月に李鴻章の助力を得ようと上海を訪れましたが、この地で朝鮮政府が送った刺客によって暗殺されました。
興宣大院君(こうせんだいいんくん/フンソンデウォングン)
- 1820年‐1898年
- 李氏朝鮮末期の王族です。単に「大院君(だいいんくん/デウォングン)」と呼ばれることもあります(「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる尊号です)。本名は李昰応(り・かおう/イ・ハウン)。第26代国王高宗の実父であり、当初は幼くして即位した高宗の摂政として政権を担い、様々な改革を進めましたが、やがて高宗の妃である閔妃の一族によって失脚させられました。その後、1894年の甲午農民戦争勃発の際の日清両国の出兵をきっかけに日清戦争が勃発すると、清国への依存を重視する閔氏政権の排除を意図する日本の後押しによって復権しました。三国干渉の後に外国勢力の影響が強まると、ロシアに接近した閔妃との対立が激化し、一時は再び政権を追われましたが、1895年の乙未事変(閔妃暗殺事件)を経て復帰するも、最後は日本による軟禁状態の中で生涯を終えました。
高宗(こうそう/コジョン)
- 1852年-1919年
- 李氏朝鮮第26代国王です。先代の哲宗が直系の跡継ぎを残さずに死去したため、傍系にありながら11歳で即位しました。当初は実父の興宣大院君に実権を委ね、成人すると共に親政を開始しましたが、王妃である閔妃の一族の大きな影響下にありました。その後は閔妃一族と興宣大院君との間の激しい対立により政治は安定せず、やがて閔妃と共に清国への依存を重視する政策をとるようになる一方で、独立国家として欧米各国との接近をはかって清国から警戒されるなど、混乱が強まりました。このような中で1894年に甲午農民戦争が勃発すると清国に出兵を要請し、これが日清戦争の勃発へとつながりました。戦後は日本への警戒からロシアに接近しましたが、1897年には国号を「大韓帝国」と改めて初代皇帝(光武皇帝)に即位、自国の独立維持を目指しました。しかし日露戦争(1904年-1905年)での勝利を挟んで日本の影響力は強まっていき、3次にわたる日韓協約が締結される中、帝位を皇太子の純宗に譲ることとなりました。1910年に大韓帝国が日本に併合されると、日本の制度上で王公族という身分とされ、そのまま生涯を終えました。
小村寿太郎(こむら・じゅたろう)
- 安政2年(1855年)‐明治44年(1911年)
- 明治期の日本の外交官、政治家です。飫肥藩の藩校から、開設されたばかりの大学南校(東京大学の前身)へと進み、明治8年(1875年)には第1回文部省海外留学生としてアメリカに派遣され、ハーバード大学で法学を修めました。帰国後に司法省に入省、間もなく外務省の翻訳局へと移りました。やがて陸奥宗光外務大臣の評価を得ることとなり、明治27年(1894年)には駐清国臨時代理公使として日清開戦を迎えました。戦争中には、清国領内に入った日本軍が初期に占領した地域(安東県)において、清国人住民の民政や犯罪の取り締まりを担う民政庁が設置された際に、その長官に任命されています。日清戦争後は、駐朝鮮弁理公使としてロシアとの間で小村・ウェーバー協定(覚書)を締結、その後外務次官や駐アメリカ公使などを経て、明治34年(1901年)外務大臣に就任、日英同盟を主導し、日露講和会議(ポーツマス会議)の場では全権代表を務めました。後に2度目の外務大臣を務めた際には、不平等条約の改正に尽力し、明治44年(1911年)に日米通商航海条約の改正などを実現させたほか、明治43年(1910年)の日韓併合を主導しています。
聶士成(じょう・しせい/ニエ・シーチォン)
- 1836年‐1900年
- 清国末期の軍人です。もとは行政官でしたが、1851年に太平天国の乱が起きると李鴻章が組織した淮軍(わいぐん)の一員として戦い、1864年の乱の鎮圧と共に将軍に昇進しました。清仏戦争(1884年~1885年)では台湾に派遣されてフランス軍と戦った後、旅順に新たに北洋艦隊の基地が築かれるとその司令官となりました。1894年に朝鮮で甲午農民戦争が勃発すると、これを鎮圧するために、直隷提督(首都北京近辺を含む地域の軍を統括する武官です)の葉志超の指揮のもと、軍を率いて牙山に渡りました。やがて仁川に上陸した日本軍が進軍してくると、牙山が戦闘に不利な地形であるとして、葉提督率いる本隊には撤退を促し、自身の部隊を成歓に移して日本軍を迎撃しましたが、大きな損害を出して敗退しました。その後平壌へと逃れるも、天津に援軍の要請に赴いている間に平壌は陥落しました。清国領内へと退いた後は、鴨緑江を越えて侵攻してきた日本軍の奉天方面への進軍を阻止するために迎撃を繰り返し、翌年に直隷提督に任命されると、そのまま戦場に出ることなく終戦を迎えました。1900年の義和団事件で再び軍を率い、当初は義和団の鎮圧にあたりましたが、やがて連合軍への攻撃へと転じ、戦闘の中で砲弾を受け死去しています。
丁汝昌(てい・じょしょう/ディン・ルーチャン)
- 1836年‐1895年
- 清国末期の軍人です。1851年に太平天国の乱が起きた際、当初はこれに参加していましたが、やがて李鴻章が組織した淮軍(わいぐん)に投降、その騎兵に転じて乱の鎮圧に貢献しました。1875年に、清国初の近代艦隊として北洋艦隊が創設されると、その司令官に任命されました。そして、近代的な軍艦を自国で建造できるように造船所の建設を提唱するなど、清国における近代化運動を後押しした他、北洋艦隊の拠点となった威海衛や旅順の開発を進めました。1882年に朝鮮で壬午事変が起きた際には北洋艦隊と共に現地に派遣され、興宣大院君を拘束しました。なお1886年には、長崎に寄港した北洋艦隊の水兵たちにより長崎事件が引き起こされています。1888年に提督となり、北洋艦隊の総司令官として1894年の日清戦争開戦を迎えました。黄海海戦の際には、北洋艦隊は大きな損害を出し、自身も負傷しています。翌年の威海衛の戦いでは残存艦隊も壊滅するに至り、使者に日本軍に対する降伏文書を託すと、間もなく自決を遂げました。
唐景崧(とう・けいすう/タン・ジンソン)
- 1841年‐1903年
- 清国末期の官僚です。清仏戦争(1884年~1885年)では、劉永福の率いる黒旗軍を用いてフランス軍と戦い戦果を挙げました。1894年には、清国政府により台湾の最高統治官職である台湾巡撫に任命されました。しかし、間もなく日清戦争において清国は劣勢となり、翌1895年の日清講和条約によって台湾は日本に割譲されることとなります。台湾でこれに反対する漢人の軍人や官僚が集結する動きが起きるとその中心となり、台湾民主国の樹立(独立)が宣言された際には同国の初代総統に選出されました。しかし直後に日本軍が台湾北部に上陸し、間もなく基隆が陥落すると、その翌日には台北にいた台湾民主国の他の指導者たちと共に台湾から清国本土へと脱出しました。その後は本土で余生を送っています。
野津道貫(のづ・みちつら/のづ・どうがん)
- 天保12年(1841年)‐明治41年(1908年)
- 幕末から明治期にかけての軍人です。薩摩藩士として戊辰戦争に従軍しました。明治期に入ると陸軍軍人となり、明治9年(1876年)にはフィラデルフィア万国博覧会に派遣されています。西南戦争への出征を経て、明治11年(1878年)には陸軍少将、明治18年(1885年)には陸軍中将に昇進し、この間、陸軍省第2局長、東京鎮台司令官、広島鎮台司令官などを務めました。明治27年(1894年)に日清戦争が始まると第5師団長として派遣された後、体調を崩した山県有朋陸軍大将に代わって第1軍司令官に着任、間もなく陸軍大将となりました。日清戦争後には近衛師団長、教育総監、軍事参議官などを歴任、日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))への出征を経て元帥となりました。
花房義質(はなぶさ・よしもと)
- 天保13年(1842年)‐大正6年(1917年)
- 明治期から大正期にかけての日本の外交官です。佐久間象山の下で儒学を学び、慶応3年(1867年)に欧米に遊学した後、明治3年(1870年)に外務省に入省しました。日清修好条規の予備交渉や千島・樺太交換条約の締結に尽力した後、明治5年に起こったマリア・ルス号事件では副島種臣外務卿を補佐し、ロシアに仲裁を求める使節の代表にもなりました。明治10年(1877年)に駐朝鮮代理公使に任命されると、公使の常駐を嫌う朝鮮政府との交渉に取り組み、明治13年(1880年)に初代駐朝鮮特命全権公使に任命されました。明治17年(1882年)の壬午事変では襲撃された公使館を脱出して帰国しましたが、軍隊を伴って再度赴任し済物浦条約を締結しました。その後は朝鮮を離れ、駐ロシア特命全権公使、農商務次官、宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任しました。
閔妃(びんひ/ミンビ)
- 1851年‐1895年
- 李氏朝鮮第26代国王高宗の妃です。「閔妃」とは閔氏の王妃という意味で、正式には「明成皇后(めいせいこうごう/ミョンソンファンフ)」と呼ばれます。驪興閔氏という家門の出身で、同じ家門の出である興宣大院君夫人の推薦により15歳で高宗の妃となりました。1873年には、王位継承問題などをきっかけに対立を強めていた義父の興宣大院君を失脚させ、朝廷内の権力を閔氏一族に集中させました。1876年の日朝修好条規の締結以降、日本の支援のもとで近代軍の育成を行うなど、日本との関係強化によって近代化をけん引する立場となりましたが、1882年の壬午事変で難を逃れると、復権した興宣大院君を再び追放するとともに清国に接近し、以降は清国への依存を重視する政策をとるようになりました。1884年の甲申政変の鎮圧により清国の影響力が強まり、1894年に甲午農民戦争が起きた際には清国に出兵を要請した結果、日清戦争の勃発を招きました。戦後になると、日本やその後押しを受ける興宣大院君への警戒からロシアとのつながりを強めましたが、1895年の10月に乙未事変が起き、日本や開化派、大院君などの反対勢力の兵士たちによって殺害されました。
陸奥宗光(むつ・むねみつ)
- 天保15年(1844年)‐明治30年(1897年)
- 幕末から明治期にかけての日本の外交官、政治家です。幕末期の江戸で尊王攘夷運動に参加する中で、坂本竜馬や桂小五郎、伊藤博文らと親交を結ぶと、その後幕府の神戸海軍操練所で勝海舟の指導を受けたほか、海援隊に入隊して坂本と行動を共にしています。明治期に入ると、外国事務局御用掛、兵庫県知事、神奈川県令、地租改正局長などを務めましたが、明治11年(1878年)の西南戦争の際に、土佐派の反政府運動に関与した罪で5年間投獄されました。出獄後は3年間にわたってヨーロッパ各国に留学、帰国後に外務省に入りました。駐アメリカ公使、続いて農商務大臣を務めた後、明治25年(1892年)に外務大臣となると、日英通商航海条約の締結によってイギリスとの間の不平等条約改正に成功、一方で清国に対する強硬外交により日清開戦へと進みました。日清講和会議には伊藤博文内閣総理大臣と共に全権弁理大臣として出席、講和交渉を担いました。その後は肺結核を患いながら三国干渉への対応を進め、遼東半島還付条約を締結させましたが、間もなく病が悪化して外務大臣を辞し、ハワイなどでの療養生活の後に死去しました。日清戦争開戦前から三国干渉に至る外交交渉の過程を記録した『蹇々録』を遺しています。
山県有朋(やまがた・ありとも)
- 天保9年(1838年)‐大正11年(1922年)
- 幕末から大正期にかけての日本の軍人、政治家です。幕末期の長州藩で吉田松陰の教えを受けた後、高杉晋作の奇兵隊に参加し、戊辰戦争に従軍しました。明治期に入ると、陸軍大輔を経て明治6年(1873年)から陸軍卿を務め、徴兵令の制定を推進するなど日本の近代軍制の確立に力を注ぎました。また、明治10年(1877年)の西南戦争では政府軍を指揮しました。明治16年(1883年)に内務卿となり、続いて明治18年(1885年)に第1次伊藤博文内閣で内務大臣に就任すると、市制・町村制・府県制・郡制の制定により地方制度を整えました。明治22年(1889年)には第3代内閣総理大臣に就任し、軍備拡張を進めましたがやがて辞任、以降、司法大臣や枢密院議長を務めました。明治27年(1894年)に日清戦争が始まると、第1軍司令官として戦地に赴きましたが、やがて体調を崩し帰国しました。明治31年(1898年)に再び内閣総理大臣を務め、治安警察法などを制定した後に、日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))では参謀総長として作戦全般の指揮をとりました。以降も要職を歴任する中で、官僚や軍人の中で強力な派閥を形成し、元老として生涯に渡って政界に大きな影響力を持ち続けました。
李鴻章(り・こうしょう/リ・ホンチャン)
- 1823年‐1901年
- 清国末期の政治家です。1851年の太平天国の乱の際に故郷で義勇兵を募って淮軍(わいぐん)を組織し、乱の鎮圧に大きく寄与しました。その後、西欧の技術の導入による国力増強を目指す洋務運動の担い手として、さまざまな改革を行いました。1870年に、首都北京近辺を含む地域を統括する地方長官である直隷総督と、対外通商や外交事務をつかさどる北洋通商大臣を兼任することで大きな実権を得ることとなり、やがて朝鮮に対する影響力を強めていきましたが、これによって清国と日本との対立が強まり1894年の日清戦争開戦に至りました。日清戦争では主力として戦った淮軍も大きな打撃を受け、清国の劣勢が強まると、清国全権代表として講和会議に臨み、日清講和条約(下関条約)に調印しました。敗戦により一時は失脚しましたが間もなく復権し、1900年の義和団事件に際して清国全権として諸外国との交渉を担って翌年9月の議定書調印にこぎつけ、2カ月後に急逝しました。
劉永福(りゅう・えいふく/リウ・ヨンフー)
- 1837年‐1917年
- 清国末期の軍人です。1851年に太平天国の乱が勃発すると、民兵組織の一員として乱に加わりましたが、やがて「黒旗軍」と呼ばれる自らの兵団を組織しました。黒旗軍は清国軍から攻撃されてベトナムへと逃れると、この地に進攻してきたフランス軍と戦うようになりました。特に清仏戦争(1884年~1885年)では、正規の清国軍に率先してフランス軍と戦って戦果を挙げ、これによって大きな名声を得ました。1894年に日清戦争が始まると、清国政府の命により黒旗軍を率いて台湾の防衛にあたりました。しかし、翌1895年の日清講和条約によって台湾は日本に割譲されることとなります。台湾でこれに反対する漢人の軍人や官僚が集結し、台湾民主国の樹立(独立)が宣言されると、初代総統唐景崧のもとで、台湾民主国軍の大将軍に就任しました。その後、台湾北部に上陸した日本軍の攻勢を受けて唐総統らが台湾から逃亡する一方で、人々の強い支持を受けて唐に代わって台湾民主国の指導者となり、日本軍との戦闘を続けました。しかし、日本軍が南下を続け、民主国の新たな拠点となっていた台南に迫ると、この地を脱出して清国本土の厦門へと渡り、台湾民主国は崩壊しました。その後は広東省で最後まで軍人として余生を送っています。