関連用語集
開化派(かいかは/ケファパ)
- 開化派(かいかは/ケファパ)
- 李氏朝鮮末期の朝廷における政治集団の1つです。「独立党(どくりつとう/トクリプダン)」とも呼ばれます。日本の明治維新などの影響を受けた両班(官僚機構を構成した貴族階級の人々のことです)の青年たちが中心となっており、清国への依存を断ち、旧来の制度を改革して近代国家の建設を果たそうとして守旧派と激しく対立しました。当初は閔妃一族も開化派でしたが1882年の壬午事変を境に守旧派に転じたため、1884年に金玉均らが政権奪取をはかって甲申政変を起こしましたが失敗。1894年の日清戦争開戦後には日本の後押しを得て勢力を強めましたが、戦後に守旧派とロシアとの結び付きが強まると衰退しました。
軍夫(ぐんぷ)
- 軍夫(ぐんぷ)
- 国から命じられて軍事活動に従事した民間人のことです。日清戦争でも日本軍は多くの軍夫を同行させ、荷物の運搬などを担わせていました。日本で集められて戦場に赴いた軍夫のほか、戦場となった朝鮮で集められた現地の軍夫も多くいました。戦場での厳しい状況に耐えられず、逃亡する人々も続発したといわれています。
公使(こうし)
- 公使(こうし)
- ある国を代表して他国に派遣されてそこに留まり(駐在)、自分の国と派遣先の国との間の外交事務、その国に在住する自国民の保護、情報収集などに従事する外交使節の一種で、正式には特命全権公使といいます。外交使節の階級としては、特命全権大使の次に位置し(職務は同じです)、次いで、弁理公使、代理公使の順になります。なお、現在の日本の制度では、公使とは主に大使館において大使の次に位置する役職を示すもので、上記の特命全権公使とは原則として異なるものになっています。
公使館(こうしかん)
- 公使館(こうしかん)
- 公使が派遣された先の国において外交事務を取り扱うための施設(在外公館)です。公使館の長が公使であり、この下にさまざまな館員が配置されます。国際法の上で、不可侵権(公使館の置かれた国の役人や警察の立ち入りを拒否するなどの権利)や治外法権(公使館の置かれた国の裁判権が適用されないなどの権利)が認められています。なお、現在の日本の制度では公使館は存在しません(1967年に全ての公使館が大使館に昇格しました)。
守旧派(しゅきゅうは/スクパ)
- 守旧派(しゅきゅうは/スクパ)
- 李氏朝鮮末期の朝廷における政治集団の1つです。「事大党(じだいとう/サテダン)」とも呼ばれます。清国への依存(事大)を重視しており、清国の庇護によって朝鮮を守ろうという考えに立って、開化派と激しく対立しました。当初は興宣大院君が中心でしたが1882年の壬午事変後に失脚。国王高宗や閔妃が守旧派に転じてからは開化派との対立が激化し、1884年の甲申政変を引き起こしますが、清国軍の協力によってこれを鎮圧し政権を維持しました。しかし、1894年に守旧派の体制に対して不満を持つ人々が甲午農民戦争を起こし、これをきっかけに勃発した日清戦争で清国が敗北すると勢力を弱めました。戦後はロシアへの接近を強めて再び政権を握りました。
第1軍(だいいちぐん)
- 第1軍(だいいちぐん)
- 日本陸軍の軍(部隊の編制単位)の1つで、日本が清国に宣戦布告を行ってから1か月後の明治27年(1894年)9月1日に編制されました。日清戦争中の司令官は、山県有朋陸軍大将(明治27年(1894年)9月1日~)、次いで野津道貫陸軍中将(後大将)(明治27年(1894年)12月19日~)。第3師団と第5師団によって構成され、平壌攻撃を行った後、鴨緑江渡河を経て、九連城や牛荘などの攻撃を担いました。基本的に戦時に編制されるものであり、日清戦争終戦後には解散されています。
第2軍(だいにぐん)
- 第2軍(だいにぐん)
- 日本陸軍の軍(部隊の編制単位)の1つで、明治27年(1894年)9月25日に編制されました。日清戦争中の司令官は、大山巌陸軍大将(明治27年(1894年)9月25日~)。第1師団、第2師団、混成第12旅団によって構成され、山東半島に上陸し、威海衛などの攻撃を担いました。基本的に戦時に編制されるものであり、日清戦争終戦後には解散されています。
大本営(だいほんえい)
- 大本営(だいほんえい)
- 戦前の日本の制度で、陸軍・海軍の最高統帥補佐機関として戦時中・事変中にのみ天皇の下に設置された機関です。明治26年(1893年)5月22日に公布された戦時大本営条例(勅令第五十二号)によって制度が作られ、政府が甲午農民戦争をめぐる朝鮮への出兵を決定した直後の明治27年(1894年)6月5日に初めて設置されました(これをもって制度上の戦時に移行したことを意味しました)。当初は参謀本部内に置かれましたが、宣戦布告後の8月5日に宮中に移動し、その後9月13日には天皇親征(天皇自らが出征すること)の意味を込めて広島に進出しました。日清講和条約締結後の明治28年(1895年)4月27日に京都に移された後、台湾征服戦争が終結し総督府による台湾統治が軍政から民政に移行された明治29年(1896年)4月1日に解散しました。その後は、日露戦争時(明治37年(1904年)2月11日)、日中戦争時(昭和13年(1938年)11月20日)にも設置されることとなります。
台湾総督府(たいわんそうとくふ)
- 台湾総督府(たいわんそうとくふ)
- 日清講和条約によって清国から台湾島及び澎湖島の割譲を受けた日本が、これらの地域の統治を行うために台湾島の台北に設置した機関(官庁)です。明治28年(1895年)5月10日に、樺山資紀海軍大将が初代台湾総督に任命されると共に、これを長とする台湾総督府が設置されることとなり、6月17日には始政式も挙行されました。しかし、これ以降も日本への台湾割譲に反発する台湾民主国と日本軍との戦闘が続きました。8月6日には一時的なものとして台湾総督府条例が定められましたが、11月18日の総督府による台湾平定宣言の後、明治29年(1896年)4月1日には新たな台湾総督府条例が、そして翌年明治30年(1897年)の11月1日には台湾総督府官制が施行され、組織体制が整えられました。その後、昭和20年(1945年)10月25日には中華民国への降伏を行い廃止されることになりますが、それまで50年間にわたって台湾島と澎湖島の統治を行いました。
台湾民主国(たいわんみんしゅこく)
- 台湾民主国(たいわんみんしゅこく)
- 日清講和条約締結後、台湾島において一時的に存在していた政権です。日清講和条約締結直後の明治28年(1895年)5月、台湾島では、台湾巡撫(清国下での台湾の最高統治官職)を務めていた唐景崧を中心に、台湾島及び澎湖島の日本への割譲に反対する漢人の軍人や官僚が集結し、5月23日に台湾民主国の樹立(独立)を宣言、25日には唐が総統に選出され、国号を「永清」とする国家の体制が整えられました。しかし、国際社会からは独立を承認されないまま、5月29日には台湾総督率いる日本軍の上陸を迎えました。その後、台湾民主国軍は漢人の義勇兵や台湾先住民とも協力しながら日本軍との戦闘を続けましたが、初代総統の唐は早期に台湾を脱出しており、これに代わって台湾民主国及び軍の指導者となっていた劉永福も、日本軍による台南攻撃直前にやはり厦門に脱出したことで、10月21日の台南陥落の時点で体制は事実上崩壊、組織的な戦闘能力も失いました。これ以降、台湾島と澎湖島では日本(台湾総督府)による統治体制が整えられました。
駄馬(だば)
- 駄馬(だば)
- 主に荷物の運搬などを担う軍馬のことです。一定の体格や能力を備え乗馬用として戦闘に用いられた馬に対し、劣った馬という意味でこのように呼ばれました。
南進軍(なんしんぐん)
- 南進軍(なんしんぐん)
- 日本陸軍の軍(部隊の編制単位)の1つで、台湾征服戦争中の明治28年(1895年)9月16日に、台湾割譲に反発する台湾民主国の拠点となっていた台湾島南部を平定することを目的として、台湾総督の樺山資紀海軍大将の命令によって編制されました。司令官は台湾副総督の高嶋鞆之助陸軍中将(明治28年(1895年)9月16日~)。台湾北部から南下を続けてきた近衛師団、遼東半島にあった第2師団、基隆方面にあった混成第4旅団を合わせて新たに編制された後、当初の計画よりも早く部隊の一部が台南入城を果たしました。この時に台湾民主国が崩壊したことで、日本軍は台湾の平定に目処が立ったと判断し、11月6日に南進軍を解散、11月18日には台湾総督府による台湾平定宣言が発せられました。
不平等条約(ふびょうどうじょうやく)
- 不平等条約(ふびょうどうじょうやく)
- 二国間で結ばれる条約(国と国との間で文書によって取り交わす合意)の中でも、一方の国の権利を認めて有利な立場に置きながら他方の国の権利を認めず不利な立場に置く、といった不平等な力関係を取り決めた条約のことです。19世紀半ばに東アジア地域に接近してきた欧米各国は、国際法(国家同士が守るべきルールのことで、明治期には「万国公法」と呼ばれていたこともあります)という考え方を持ち、国と国との権利関係を条約によって明確に取り決めることを求めました。しかし、東アジアの国々の多くでは、このような考え方がまだ育っておらず、自国の法制度では対応できない部分が大きかったために、欧米各国との条約交渉において対等な関係を築くことができず、多くの不平等条約を結ぶことになりました。
北洋艦隊(ほくようかんたい)
- 北洋艦隊(ほくようかんたい)
- 清国末期に存在した4つの艦隊(北洋艦隊、南洋艦隊、福建艦隊、広東艦隊)のうちの1つで、威海衛と旅順を母港として活動しました。北洋通商大臣兼直隷総督であった李鴻章によって1871年に創設され、司令官は丁汝昌提督が務めました。旗艦の戦艦「定遠」や同型の「鎮遠」などの強力な艦船を備える艦隊でしたが、明治27年(1894年)9月17日の黄海海戦で日本海軍の連合艦隊の攻撃によって大きく戦力を低下させました。その後、11月21日の旅順陥落によって拠点の1つを失い、その後は威海衛に留まり大きな動きを見せませんでしたが、明治28年(1895年)2月上旬の威海衛の戦いの際に、日本軍の攻撃を受け壊滅状態となりました。
連合艦隊(れんごうかんたい)
- 連合艦隊(れんごうかんたい)
- 日本海軍の部隊の1つで、明治27年(1894年)7月19日に、日清開戦に備えて初めて編制されました。司令長官は、日清戦争開戦時には伊東祐亨海軍中将(明治27年(1894年)7月19日~、常備艦隊司令長官との兼任)、その後台湾征服戦争時には有地品之允海軍中将(明治28年(1895年)5月11日~、常備艦隊司令長官との兼任)。その名称のとおり、2つ以上の艦隊によって編制されるものであり、日清戦争時は既に存在していた常備艦隊と西海艦隊をあわせるかたちで構成されていました。明治27年(1894年)9月17日の黄海海戦などで清国軍艦隊と戦闘を行ったほか、遼東半島や山東半島、台湾への陸軍部隊の上陸を支援しました。その後、台湾征服戦争が終息を迎えた明治28年(1895年)11月16日に解散されています。日露戦争時(明治37年(1904年)2月11日)に再び編制されたほか、戦時や演習の際に臨時に編制されていましたが、大正12年(1923年)以降は常設となりました。