4. 講和へ : 講和交渉の開始~下関条約締結と三国干渉
講和に向けた動きの始まり
1894年10月末の日本軍の遼東半島上陸によって、北洋艦隊の重要な拠点である旅順が攻撃され陥落する危険性が高まったことは、清国にとっては、首都北京一帯の地域までもが日本軍の攻撃にさらされる可能性もまた強まってきたことを意味しました。11月6日に金州が陥落する頃には、清国の北洋通商大臣兼直隷総督である李鴻章は、戦争を長引かせることを避けるために日本との講和を考えるようになります。
11月26日、李鴻章のもとで天津の海関(海港に設置された税関のことです)の税務司を務めていたデトリングというドイツ人が、李の使者として日本(神戸港)を訪れました。デトリングは、李が伊藤博文総理大臣に宛てた講和を申し入れる書簡を携えていましが、清国政府による全権委任状などは持ち合わせていなかったため、日本政府は正当な使節と認めず帰国させることとなりました(→関係公文書①)。
その一方で、アメリカを仲介とした講和交渉の準備も進められていました。ダン駐日本アメリカ大使とデンビー駐清国アメリカ大使を通じた調整の結果、翌年の1月には、日清両政府は大本営のある広島で交渉を開始することで合意します。日本政府では、これに先立って講和の条件についての検討を始めていましたが、この合意を受けて、講和条約案を作成すると共に、伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣の2名を全権弁理大臣に任命し、交渉の体制を整えました。
明治28年(1895年)1月31日、清国から派遣された張蔭桓と邵友濂の2名の講和使節が広島に到着しました。しかし、今回も日本政府から全権委任状の不備が指摘されたことで交渉は早期に打ち切られ、2名の使節は帰国を余儀なくされました(→関係公文書②)。
このように、講和交渉がなかなか実現されないまま、戦争はさらに進行していくことになります。
日本軍の山東半島上陸と威海衛の陥落
明治27年(1894年)11月21日の旅順陥落により、清国北洋艦隊の母港の1つを消滅させた日本軍では、大本営が、冬営の実施を見送り、そのまま北京方面への攻撃を実行することを考えるようになっていました。そこで、黄海の制海権をより確実なものとするために、北洋艦隊のもう1つの母港でありその残存戦力が留まっている山東半島の威海衛への攻撃を実施することになります。
明治28年(1895年)1月20日、旅順を占領していた日本陸軍の第2軍の一部の部隊が、日本海軍連合艦隊との共同作戦により、海路を使って山東半島の突端部の南に位置する栄城湾への上陸を開始しました。
第2軍の上陸部隊は、沿岸部の清国軍への砲撃などの連合艦隊の援護を受けながら上陸を完了させると威海衛方面へと進みました。この時点で、第2軍司令官の大山巌陸軍大将は、清国北洋艦隊を率いる丁汝昌提督に対して、イギリスを通じて降伏勧告を行っています(→関係公文書③)。しかし、丁提督はこれを受け入れませんでした。
1月30日には、威海衛の防衛のために清国軍が設置していたいくつかの砲台に対し、日本軍が攻撃を開始します。この戦闘では、当初は清国軍が砲台や威海衛港内の艦船から日本軍に対する砲撃を行っていましたが、やがて日本軍も占領した砲台から清国側の砲台や艦船に対する砲撃を始め、双方の間で激しい砲撃戦となりました。この日のうちに、日本軍は威海衛南岸のすべての砲台を占領し、続いて北岸の砲台への攻撃を開始、こちらも激しい戦闘の末に2月2日には日本軍の占領下に入りました(→関係公文書④)。こうして威海衛は事実上陥落しましたが、清国北洋艦隊の残存艦船は威海衛の湾内にある劉公島に留まっていたため、日本軍は引き続いてこれらの艦隊に対する攻撃に移ります。
2月7日、日本軍は陸軍部隊と海軍連合艦隊による陸海からの総攻撃を開始しました。日本軍は既に占領していた威海衛周辺の砲台から砲撃を繰り返し、対する清国軍も威海衛湾内の劉公島や日島の砲台からの砲撃で応戦しましたが、間もなく北洋艦隊は、旗艦である戦艦「定遠」が大破した後に自沈(捕獲されるのを避けるために自ら沈むこと)するなど、主力の艦船を失います。こうして戦力を大幅に失いつつあった上に、内部の統制にも支障をきたしていた清国軍は、2月12日、白旗を掲げた1隻の砲艦によって日本軍に降伏文書を届けました(→関係公文書⑤)。この降伏文書の内容は、清国の艦船や砲台、兵器の全てを日本軍に明け渡すことを申し出る一方、清国軍に同行している外国人(軍事顧問ら)の生命の安全を保障することを請うもので(→関係公文書⑥)、丁提督から連合艦隊の伊東祐亨司令長官に宛てたものでしたが、丁提督は降伏を決定した時点で既に自決を遂げていました(→関係公文書⑦)。降伏規約への両国軍による調印の後、2月17日には清国軍から日本軍への艦船や砲台等の引き渡しが実施され、威海衛は日本軍の占領下に入りました(→関係公文書⑧)。
威海衛の戦闘の結果、清国北洋艦隊は壊滅状態となり、黄海方面における清国海軍の戦力は失われました。このような状況をうけ、遼東半島方面では、鳳凰城や海城を拠点としていた日本陸軍第1軍が更なる進軍を開始します。まず、清国軍に包囲された状態にあった海城を守備する第三師団が包囲軍を撃退しながら西方へと進み、第5師団と共に3月4日には牛荘への攻撃を開始、深い積雪の中での戦闘が行われました。
その後も日本軍は営口や田庄台を攻撃しましたが、戦闘によっていずれの地も日本軍の占領下に入ると、間もなく清国軍による反撃は勢いをなくしていきました。
講和会議の開始
2月17日の威海衛の陥落により、清国にとって戦況はいよいよ厳しいものとなりました。1895年1月末に日本に派遣した2名の使節が日本政府から正当な全権使節と認められず、講和交渉に取り掛かかれなかった清国政府は、2月末に李鴻章を欽差頭等全権大臣(特命全権大使)に任命し、全権委任状を託します。また同時に、過去に駐日本公使を務めていた李経方も欽差全権大臣に任命され、清国の全権委員が決定すると、日本政府による確認の手続きも行われ、講和交渉の準備が整いました。
3月19日の朝、李鴻章と李経方が下関(当時は山口県赤間関市)に到着しました。これを日本政府の全権弁理大臣である伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣が迎え、翌日には、春帆楼という割烹旅館で、両国全権委員による講和会議が開始されました。
日清講和条約(下関条約)の締結
明治28年(1895年)3月20日に行われた第1回会議で、清国側は、両国間での戦闘を早急に停止すべく休戦条約の締結を求めます。これに対し日本側が、翌日の第2回会議で、休戦の条件として、太沽、天津、山海関といった重要な地点の日本軍による占領及びこれらの地にいる清国軍の全装備の日本軍への引き渡し、天津―山海関間鉄道の日本軍による管理、休戦期間中の日本軍の軍費の清国軍による負担、といった厳しい要求を提示すると、清国側はこれを拒絶します。日本側も条件をまったく譲歩しなかったため、3月24日の第3回会議でも休戦条約の内容はまとまらず、法的には交戦状態のままで講和交渉に移行することとなりました。この第3回会議の終了後、清国全権の李鴻章が春帆楼から宿泊先の引接寺に帰る途上で、小山豊太郎(六之助)という人物の銃撃を突如受け、顔面を負傷するという事件が起きます。この事態に日本政府は態度を軟化させ、3月30日には無条件の休戦条約が締結されました(→関係公文書⑨)。
なお、日本側の意向によって、この休戦条約の適用対象地域から台湾と澎湖島が除外されています。それは、日本が講和条約によって清国から台湾の割譲を受けることを目指していたからでした。遼東半島や山東半島での戦闘が大勢を決しつつある一方で、日本軍は3月23日には既に新たな部隊を澎湖島に派遣して上陸を開始し、台湾占領に向けた動きを進めています。こうして、実際に日本による支配状況を作り出すことで、日本が示した講和条約案に盛り込まれた台湾割譲という条件を清国が受け容れるものと日本側では考えていました。
銃撃を受けた李の傷は深いものではなく、4月1日の第4回会議の際には李は病床から李経方に指示を出していたものの間もなく回復し、4月10日の第5回会議からは交渉の席に戻りました。日本側は既に日本軍の占領下にある遼東半島に加え、台湾と澎湖島の割譲を盛り込んだ講和条約案を提示しましたが、清国側は台湾の割譲に強く反発しました。これに対し日本側全権委員の伊藤博文は譲歩をせず、最終的に条件の緩和が行われないまま、4月17日に日清講和条約(通称「下関条約」)が両国全権委員によって締結されることになりました。条約の主な内容は、(1)清国が朝鮮を「完全無欠なる独立自主の国」であると認めること、(2)清国が日本に遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲すること、(3)清国が日本に多額の賠償金を支払うこと、(4)清国が新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開港すること、(5)日本と清国が通商航海条約を締結すること、というものでした。
三国干渉
日清講和条約(下関条約)は、調印の後、改めて日清両国内で批准の手続き、つまり国家として条約の内容に従うことを最終的に決定する手続きが完了することで正式に発効し、日本は清国から、遼東半島、台湾及び澎湖島の割譲を受けることになります。しかし、批准を前にこの条約の内容が内外に知られるや、日本が遼東半島を領有することに対して、国際社会から強い反発が起きました。
日清戦争の行方は、19紀後半から東アジア地域に対する影響力を強めてきていた欧米各国にとっても大きな意味を持ちました。このため、開戦前から講和交渉に至るまで、日本に対しても清国に対しても、様々な国から働きかけが行われてきました。そうした中で、この戦争で劣勢を強いられた清国が講和条約の内容で日本に譲歩することにより、清国に対する日本の影響力が大きなものとなることを警戒する動きがいくつかの国において見られるようになります。伊藤博文らもこうした動きを察知しており、講和条約の内容に対して欧米各国の干渉が起こることを予想して条約の締結を急いだと言われます。
講和条約締結の直後である明治28年(1895年)4月23日、ドイツ、ロシア、フランスの3国の駐日公使が東京の外務省を訪れ、日本の遼東半島領有を放棄するように求める3国それぞれの政府からの勧告を伝えました(→関係公文書⑩)。この出来事は「三国干渉」と呼ばれます。3国による勧告の趣旨は、日本が遼東半島を領有するということは清国の首都北京の安全を脅かすことであると同時に、朝鮮の独立を無実化し、ひいては東アジアの平和を妨げるものである、と強く主張するものでした。
これを受けた日本政府は、勧告を受け入れなかった場合には3国からさらに軍事的な干渉を受ける危険性が高いと判断し、対応について、4月24日の御前会議などで協議を重ねます。そこでは、列国会議を開催し、各国との間で遼東半島の帰属について協議する、あるいは、イギリスやアメリカの協力を得て3国による勧告の撤回を目指す、などの方針が模索されましたが、列国会議における各国からの更なる干渉が懸念されたことや、イギリスやアメリカによる協力が得られなかったことなどから、日本政府は最終的に3国による勧告を受諾することを決定しました。
5月8日に日清間で日清講和条約の批准書交換は実施されたものの、この「三国干渉」の受け入れにより、日本はこの年11月18日には清国との間で遼東半島還付条約を締結し、清国から報償金の支払いを受けると共に遼東半島を清国に返還、駐留していた軍隊も撤退させることとなりました(→関係公文書⑪)。
なお、この後のわずか4年ほどの間に、ドイツは山東半島の膠州湾の租借を(1898年)、ロシアは遼東半島の旅順や大連の租借を(1898年)、フランスは広州湾の租借を(1899年)それぞれ清国から受けたほか、イギリスも既に租借地であった香港に加えて威海衛などの租借も受けることになるなど(1898年)、日清戦争において戦場となった地域をはじめ清国の各地が、次々と欧米各国の支配下に置かれることになります。そして、これらの地域は、やがてまた新たな戦争の舞台となっていきました。
関係公文書
- 関係公文書②
- レファレンスコード: B06150069500 件名: 張、邵来朝及談判拒絶分割2
- 張蔭桓と邵友濂という2名の清国の講和使節が来日した際の、日本政府内のやり取りに関する文書をまとめたものの一部です。2名の使節が上海を出発する前後から、明治28年(1895年)1月31日に広島に使節団が到着し、2月1日に広島県庁で日本側全権委員(全権弁理大臣)の伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣との面会が行われ、双方の全権委任状を交換するまでの外務省内での対応が記されています。36画像目から、1月27日に広島の大本営で行われた御前会議の記録があり、伊藤総理大臣から明治天皇に対する講和条約案の趣旨や講和交渉の進め方についての説明内容が記されています。なお、この2月1日の最初の会合の際に、清国側使節の持参した文書は全権委任状とは認められないものであるとして、交渉は中止されています。