3. 戦闘の経緯 : 平壌陥落と黄海海戦~日本軍の清国侵入
日本軍の作戦方針決定
開戦時に朝鮮における清国軍の拠点であった牙山が陥落した後、かつてこの地に陣を構えていた葉志超提督率いる部隊は北方の平壌に移動しました。その後、平壌の清国軍は次第に増強されていきます。
こうした清国軍の動きを8月上旬から感知していた日本軍は(→関係公文書①)、次の攻撃目標を平壌と定め、更なる戦闘の準備を進めていきました。牙山に駐留する清国軍の撃退を目標として掲げることによって清国との開戦に至った日本でしたが、8月中旬には、朝鮮国内のすべての清国軍を撃退する、あるいは直接的に清国自体への攻撃を行う、という選択を情勢に応じて行うとする方針を定めました(→関係公文書②)。その後、実際に日本軍は、平壌などの朝鮮内の清国軍の拠点を占領した後に、清国領内への侵入及び攻撃へと移っていくことになります。
なお、6月に東京の参謀本部内に設置された大本営は、8月5日に宮中に移転した後、9月13日には広島城内に移され、その2日後の9月15日には明治天皇も広島大本営に入りました(→関係公文書③)。広島は宇品港(その後拡大が進み現在は広島港と呼ばれています)を備え、戦場に兵士や物資を送り出す拠点となっていましたが、この地に天皇が移ったことから、議会や国の中枢機関の多くも一時的に広島に居を移し、日清戦争中の広島はいわば臨時の首都としての機能を担うこととなりました。
平壌の戦い
9月1日、日本陸軍において、これまで戦闘を行ってきた大島義昌陸軍少将率いる混成第9旅団を含む第5師団に、新たに派遣される第3師団を加えることで第1軍が編制され、その司令官には山県有朋陸軍大将が任命されました(→関係公文書④)。しかし平壌への攻撃は、第3師団の本隊が朝鮮半島に到着するのを待たずに、第5師団に第3師団の先行部隊を加えた戦力によって行うことになります。
日本軍はこの時点では未だ黄海の制海権を得ていなかったために、本国から派遣される増援部隊の多くは、清国艦隊の攻撃を避けるために朝鮮半島東岸の元山や南岸の釜山に上陸しました。第5師団の主力部隊も釜山上陸の後に陸路を移動し、8月末までに漢城やその周辺に到着していました。9月1日にはこれらの部隊が平壌に向けて出発し、やがて、先行していた混成第9旅団の主力部隊、漢城北方の朔寧から出発した部隊(朔寧支隊)、元山に上陸し陸路を西進してきた部隊(元山支隊)と共に平壌の町を包囲、9月15日に総攻撃を開始します。日本軍部隊の兵力が大きなものであったのに対し、この時点で平壌に駐留していた清国軍部隊も13,000名ほどの大規模なものであり(当時の日本軍の見解)、この平壌をめぐる戦闘は最初の大規模な陸戦となりました。
清国軍による平壌の防衛は強固であり、この日の戦いは日清両軍にとって厳しい戦闘となりました。しかし夕刻近くに、日本軍の朔寧支隊及び元山支隊と戦闘中であった部隊が攻撃を停止して降伏旗を掲げると、その後に訪れた激しい雷雨の間から深夜にかけて、清国軍は次々に平壌を脱出していきました。そして、翌日未明には日本軍が平壌への入城を開始し、間もなくこれを占領しました。
黄海海戦
開戦以来、黄海及び渤海一帯は、この海に面する旅順や威海衛を拠点とする清国の北洋艦隊の勢力下にありました。丁汝昌提督率いる北洋艦隊は、旗艦である戦艦「定遠」やこれと同型の「鎮遠」などの強力な艦船を有していましたが、豊島沖海戦における日清間での海戦の経験をもとに、装備に改良を加えるなどして戦力の更なる増強に努めつつ、日本艦隊に対する迎撃に備えていました。一方、伊東祐亨海軍中将が司令長官を務める日本海軍連合艦隊は、戦争を進める上ではこの北洋艦隊の戦力を封じる必要があると考えていましたが、その動きについてじゅうぶんな情報を得られないために所在を把握することが出来ず、黄海一帯でしばらく偵察を続けていました。(→関係公文書⑤)。
9月17日、平壌に駐留する部隊の増援のために兵士や物資を運んでいた輸送船の護衛を終え、鴨緑江河口の西方に位置する大孤山の沖を航行していた清国の北洋艦隊と、偵察を続けながら大孤山沖にある大鹿島の停泊地に向かっていた日本の連合艦隊が、偶然に互いを発見しました。両艦隊は即座に大規模な海戦に突入し、黄海及び渤海の制海権をめぐる黄海海戦(「鴨緑江沖海戦」「大孤山沖海戦」とも呼ばれます)が始まりました。
この海戦では日清双方の艦隊が大きな損害を出すこととなりましたが、日本の連合艦隊では旗艦である防護巡洋艦「松島」を含む4隻の大破や中破という損害だったのに対し、清国の北洋艦隊は4隻が沈没し、その他多数の艦船が大破・中破するなどしました。「鎮遠」や「定遠」などの主力艦船は一部で火災を起こしながらも威海衛へと逃れましたが、これ以降、黄海における清国艦隊の戦力は大きく低下することとなりました。
日本軍第1軍の鴨緑江渡河
平壌という朝鮮内の重要な拠点を失い、また北洋艦隊が戦力を低下させ威海衛へと後退したことにより、清国軍は朝鮮半島と黄海における勢力を弱めつつありました。こうした状況は、日本軍にとっては、清国本国への攻撃に移るための条件が満たされたことを意味しました。
ここから日本軍は、2つの道筋から清国への攻撃を進めていくことになります。その1つは、これまで朝鮮半島で戦闘を行ってきた第1軍が北上し、朝鮮と清国との国境である鴨緑江を越えて清国内に侵入した後、首都北京方面に向けて進むという道筋。もう1つは、新たに編制された第2軍が黄海から直接遼東半島や山東半島に上陸し、清国艦隊の拠点である旅順や威海衛を陸海から攻撃するという道筋です。
第1軍を構成する部隊のうち、第5師団と第3師団の一部が平壌の占領を果たしていましたが、第3師団の残りの各部隊は9月半ばに相次いで仁川などに上陸した後に漢城を経て平壌に向けて出発、9月の末に平壌周辺に到着しました(→関係公文書⑥)。こうして第3師団との合流を終えた第1軍は、鴨緑江方面に向けて順次移動を開始します。この道中には、清国軍の部隊が駐留する定州や安州といった地点がありましたが、いずれの場所でも清国軍は国境方面への撤退を行い、戦闘は発生しませんでした。しかしその一方で、日本軍部隊は、この大規模な軍隊が行動するのにじゅうぶんな食糧や物資、そしてそれらを輸送する軍夫や駄馬の確保に苦しみました。
10月24日、第1軍は鴨緑江沿岸の2箇所に軍事用の即席の橋を設置し、渡河を開始します。他方の清国軍は、国境警備のために鴨緑江西岸に位置する九連城に駐留していた部隊や、これまでに平壌などの朝鮮半島から退却してきた部隊が、鴨緑江沿岸の虎山などを拠点として、渡河を終えた日本軍部隊への攻撃を行い、激しい戦闘が起きました。
鴨緑江渡河を終え(すなわち国境を越え)、迎撃する清国軍を退けた日本軍第1軍は、10月26日の明け方には九連城の包囲、攻撃へと移りました。これに対し、九連城を守備していた清国軍部隊は、鴨緑江沿岸での戦闘による損害もあり、日本軍の攻撃が開始される前に撤退しました。
戦闘を行うことなく九連城を占領した日本軍第1軍は、ここから二手に分かれます。まず、第5師団を中心とした部隊がさらにその西方にある鳳凰城に進み、10月29日に攻撃を開始しました。これに対し清国軍は早期に退却を始め、鳳凰城は間もなく日本軍の占領下に入りました。
一方で、第3師団を中心とした部隊が鴨緑江沿いに南下し、まず大東溝を占領した後、ここから退却した清国軍の一部を追うかたちで海岸線に沿って大孤山に進みました。そして11月5日にはこの地の清国軍部隊に対する攻撃に移りましたが、清国軍が既に退却を済ませていたため、そのまま大孤山を占領することとなりました。その後日本軍は、海港を備えていたこの場所を、海路を使った補給の拠点として用いることになります。
また、大孤山を含む安東県には日本軍によって民政庁が設置され、これまでに第1軍によって占領された地域における清国人住民の民政や犯罪の取り締まりを担うこととなりました。なお、その長官には駐清国臨時代理公使であった小村寿太郎が任命されています(→関係公文書⑦)。
11月11日には、鳳凰城を出発し北西方面(奉天府方面)に進んでいた第5師団の部隊が、連山関で清国軍部隊と戦闘を行った後にこれを占領します。
これに対し、清国軍は奉天府から大規模な部隊を出撃させ、連山関附近の摩天嶺を拠点として日本軍への攻撃を行いました、これによって、日本軍部隊は連山関から東南方向に位置する草河口まで後退し、しばらくの間この一帯では両軍の間で厳しい戦闘が続きました(→関係公文書⑧)。
日本軍第2軍の遼東半島上陸と旅順の戦い
日本軍による清国攻撃のもう1つの動きが、第2軍による遼東半島上陸によって開始されます。平壌の戦いと黄海海戦の結果を得て間もなく、9月25日に第1師団、第2師団、混成第12旅団を合わせて第2軍が編制され、司令官には陸軍大臣を務めていた大山巌陸軍大将が任命されました(→関係公文書⑨)。9月末には混成第12旅団が仁川に上陸し、残りの部隊は10月中旬から下旬にかけて遼東半島に向け海路を移動します。この時、連合艦隊は第2軍の最初の目的であった旅順の攻撃に適した上陸地点について事前に調査を行い、大孤山と金州の中程の遼東半島の南岸に位置する花園口という場所を提案しました。当初、第2軍の大山司令官は目的地から遠すぎるとしてこれに反対しましたが(→関係公文書⑩)、最終的には花園口への上陸が決定され、10月24日から27日にかけて実行されました(→関係公文書⑪)。また後発の混成第12旅団は、11月7日に同じ地点からの上陸を行っています。
上陸を終えた第2軍のうち、第1師団は西方に進み、11月6日に金州への攻撃を開始しました。金州は遼東半島西端の突端部に位置する要地ではありましたが、清国軍守備隊は早期に撤退します。
その後第1師団はさらに西に向かい、11月7日に大連湾の砲台などを占領した後に、旅順攻撃の準備にかかりました。混成第12旅団が合流したほか、守りの堅い陣地への攻撃に適した威力の強い大砲などを備えた臨時攻城廠が新たに編制され、占領後間もない大連湾から上陸し陣営に加わりました。
清国軍にとっても、北洋艦隊の拠点である旅順を守ることは戦争の行方に対して重要な意味を持ちました。旅順の清国軍兵力は、従来の守備部隊に金州から撤退してきた将兵も加わって大きなものとなっていました(→関係公文書⑫)。
11月18日には旅順に接近した日本軍部隊と清国軍部隊との間で戦闘が始まり、21日未明には日本軍が総攻撃を開始します。激しい戦闘の末に、日本軍部隊が一帯の砲台を占領したことで、旅順は陥落しました。
冬の到来
この段階で主戦場となっていた遼東半島から奉天府にかけての地域は、11月には寒さが厳しくなり、既に雪深くなっている場所もあったため、日本軍では、この地域での軍隊の行動に困難が伴うようになっていました。また、清国領内での戦闘となって以来苦しんできた食糧の確保についても、更なる困難が起きることが予想されました。こうした事情から、日本軍は冬季の間には一時戦闘を中断し冬営を行うことを検討していました。
第1軍のうち、第5師団は既に占領していた九連城や鳳凰城を拠点として守備に徹し、12月半ばには清国軍の反撃を受けながらも(→関係公文書⑬)、その後は戦闘を行うこともなく冬を越すこととなりましたが、一方で、第3師団は首都北京方面へと歩を進めるべく、12月13日には清国軍の拠点であった奉天府内の海城への攻撃を行います。
戦闘は間もなく終了し、海城は日本軍の占領下となりました。しかし、交通の要衝でもあるこの海城は清国軍にとっても重要な場所であったため、その奪還を目指して清国軍部隊がたびたび攻撃を繰り返し、海城を防衛する日本軍との激しい戦闘は翌年の2月末まで続きました(→関係公文書⑭)。
朝鮮における農民軍の再蜂起と壊滅
日清戦争勃発の1つのきっかけともなった甲午農民戦争は、日清双方が朝鮮半島への出兵の準備に取り掛かる中、6月11日に農民軍が朝鮮政府との間で全州和約を締結したことで終息を迎えていました。しかし、その後日本との協調をはかる興宣大院君の政権が成立し、8月26日に「大日本大朝鮮両国盟約」が締結されたことなどから、朝鮮政府の対日協力姿勢を批判して農民軍が再び動き始め、10月に入る頃には朝鮮政府と朝鮮内の日本軍への攻撃を本格化させました(→関係公文書⑮)。
朝鮮国内の日本軍部隊は、当初は清国内で戦闘を行っている部隊に比べて非常に規模の小さいものでしたが、農民軍の再蜂起を受けて本国からの増援部隊が加わり、朝鮮政府軍とも連携して農民軍との戦闘を繰り返しました。11月の28日、29日には、数万人規模の農民軍が忠清道の公州への攻撃を実施、これを迎撃した日朝連合軍との間で激しい戦闘が発生します。この結果、農民軍は大きな打撃を受けてほぼ壊滅状態となりました(→関係公文書⑯)。これ以降、翌年にかけて朝鮮半島南部へと撤退を続ける農民軍と日朝軍との衝突が続きましたが、やがて指導者が相次いで朝鮮政府に逮捕されるなどし、農民軍の活動は終息していきました。
関係公文書
- 関係公文書②
- レファレンスコード: C08040463000 件名: 作戦に関する緊要雑件(9)
- 日清戦争中のさまざまな作戦の立案や実行に関する文書の内容をまとめたものの一部です。43画像目から、明治27年(1894年)8月15日付で大本営参謀総長が「大方針」の決定を伝達した際の文書があります。45画像目から大方針の「甲号」があり、清国と朝鮮の2国のみが関係すると想定した上での大方針が示されています。ここでは、日本軍が黄海や渤海の制海権を得た場合には、陸軍の主力部隊は「渤海湾頭」つまり清国の首都北京方面にまで攻め込み清国と「決戦を行う」「雌雄を決する」こと、双方が制海権を得られない場合には、陸軍は朝鮮国内の清国軍を撃退することなどが計画されています。また47画像目からは「乙号」があり、清国とロシアが関係すると想定した上での大方針が示されています。