解説コラム

岩倉使節団をより深く理解するための解説や、岩倉使節団に関する様々なトピックを、コラム形式でご紹介します。

幕末に欧米へ派遣された3つの使節団

 岩倉使節団より前にも諸外国に派遣された日本の使節団がありました。今日、それらの使節は、幕末に派遣されたことに因んで、幕末遣外使節と呼ばれています。

 江戸幕府は複数回にわたって欧米諸国に使節を派遣しました。それには、幕末に各国と締結された諸条約が関係しています。19世紀中葉、経済的利権を求めて東アジア進出を図る欧米列強は、日本に開港を求めてきました。嘉永6(1853)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦を率いて浦賀に来航し、国書を提出して開港を求めます。当時の日本は鎖国体制下にありましたが、幕府は国書を受領して翌年に回答することを約束し、ペリーをいったん日本から立ち去らせました。その直後、今度はロシアの使節プチャーチンが長崎に来航して開港と北方の国境画定を要求しました。安政元(1854)年、ペリーが再来航して強硬に開港を迫ったため、幕府は遂に日米和親条約を締結し、下田と箱館2港の領事駐在や片務的最恵国待遇の権利をアメリカに与えました。次いでプチャーチンとも日露和親条約を締結し、長崎を加えた3港を開港して国境に関する取り決めを行いました。択捉島以南を日本領、得撫島以北をロシア領とし、樺太は国境を設けず雑居の地となりました。この後、イギリス・オランダ両国とも和親条約を締結しました。

 安政5(1858)年、日本はアメリカと日米修好通商条約を調印し、箱館・神奈川(のち横浜に変更)・新潟・兵庫・長崎の開港、江戸・大坂の開市(通商許可)などを承認し、下田は調印直後に閉鎖します。続いてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を締結し、所謂、安政の五ケ国条約を結びました。これらの条約は法権・関税自主権などで締結国と対等でない不平等条約でした。このため、後に明治政府において不平等条約改正が日本の重要課題となりました。さらに、開港に反対する人々の間で攘夷論が盛んとなり、尊王論と結びついて尊王攘夷運動へと展開します。

 本コラムでは、このような状況下で派遣されることとなった第1回から第3回までの外交使節を扱います。第1回は万延元(1860)年に日米修好通商条約の批准書交換のため、新見正興(しんみ まさおき)らをアメリカへ派遣。第2回は文久元(1862)年で、通商条約で約束した開港と開市の延期交渉を目的として竹内保徳らを欧州へ派遣。第3回は文久3(1864)年で、横浜鎖港交渉のために池田長発(ながおき)らを欧州へ派遣しましたが、実際に訪問した先はフランスだけでした。それでは、どのような人物がどのような行程で欧米諸国を訪ねたのか、順次、見ていくことにしましょう。

 まず初めに万延元年遣米使節についてご紹介いたします。日米修好通商条約締結から2年後の万延元(1860)年、条約批准書を交換するため、江戸幕府はアメリカへ総勢77名から成る使節団を派遣しました。

 本コラムで紹介する遣外使節の正使と副使はすべて外国奉行から選出されました。万延の使節団では正使に新見正興、副使に村垣範正が任命され、さらに目付には小栗忠順(ただまさ)が任命されました。また、日本の航海術向上等のため、別に軍艦奉行木村喜毅(よしたけ)、船将勝麟太郎(のちの海舟)ら91名が軍艦咸臨丸に乗って使節に随行しました。

【画像1】万延元年遣米使節団が、条約批准書を交換した証として、ワシントンで調印した批准条約交換証書。和文証書には新見・村垣・小栗の3名が、英文証書にはカス国務長官が署名し、それぞれの証書に蘭訳文が添えられた(外務省外交史料館所蔵、請求番号:U3)。なお、田中一貞編『万延元年遣米使節図録』(1920年)に、使節団が国務長官より受け取った条約批准書の図が収録されており、国立国会図書館デジタルコレクション(請求番号:210.58-Ta744m)より閲覧可能である。

 安政7(1860)年1月18日〔以下、月日を旧暦で記す〕、新見らは品川停泊のアメリカ軍艦ポーハタン号へ乗船し、翌日アメリカへ向けて出帆しました。2月14日、ホノルル港着。ハワイではカメハメハ4世の治世であり、同国からアメリカと同様の条約を日本と締結したいとの申し出がありましたが、使節は帰国後に政府に具申してから返答したいと回答しました。3月9日、アメリカのサンフランシスコに到着。ここで木村・勝らと別れた使節一行は、パナマを経由して首都ワシントンに向かいます。万延元(1860)年閏3月28日〔3月18日付で安政から改元〕、使節はブキャナン大統領と謁見して国書を捧呈し、4月3日に条約批准書を交換しました。さらに同月、新見は両国の貨幣通用に関する協議を申し込み、国務長官との会談で通貨交換レートの取り決めを行いました。ワシントンで国会議事堂、博物館、海軍工廠などを訪ねた一行は、次いでフィラデルフィアとニューヨークを遊覧します。その後、5月13日にアメリカ軍艦ナイアガラ号で帰途に就くべくニューヨーク港を出港し、9月27日に神奈川へ帰着しました。

 使節帰国後、莫大な費用と労力をかけて送迎してくれたことへの謝意を込めて、幕府は駐日アメリカ公使ハリスならびにナイアガラ号のアメリカ人船将以下20余人を饗応に招き、その労をねぎらいました。また、アメリカで使節が購入した英語学習や機械に関する書籍は蕃書調所に、同じく購入した蒸気器械は軍艦操練所に納められました。

 なお、保留としていた条約締結を求めるハワイへの回答については、文久元(1861)年5月、ハリスを通して謝絶の旨を記した書簡と贈り物がハワイへ届けられたのでした(「新見豊前守等米国渡航本条約書交換一件」『幕末外交関係雑纂』Ref. B03030102300)。

 次に、文久遣欧使節についてご紹介いたします。派遣の発端は、イギリスとフランスの両公使からの要請でした。各国と条約を締結した以上はアメリカのみならず欧州へも使節を出すべきであろうというのです。しかし、幕府としての緊要の課題は、攘夷運動の只中にあって、通商条約で結んだ開港開市を約束の時期に実施することが困難な状況にあることでした。そこで幕府は、正使を竹内保徳、副使を松平康直とする遣欧使節団を組織し、派遣目的として兵庫・新潟の両港ならびに江戸・大坂の両都の開港開市延期、樺太の境界画定などを掲げました。

【画像2】ロンドン万国博覧会の日本コーナーでは、陶器類の左右に大きな蓑笠が展示された。(The Illustrated London News, 20th Sept.1862, 横浜開港資料館所蔵)

 文久元(1861)年12月22日、竹内ら総勢38名の使節団はイギリス軍艦オーディン号に乗船し、品川を出帆。翌年3月9日、フランスのパリに到着し、15日にナポレオン3世と謁見して国書を捧呈します。外相と複数回談判の席を設けますが意見が相容れず、まずはイギリスへ赴き、帰途、再び談判を開いて決することになりました。

 4月2日、ロンドン着。ヴィクトリア女王に謁見し、国書を捧呈。外相と数回の談判ののち、開港開市を5年延期する旨を承諾する覚書が交わされました。また、ロンドン万国博覧会へ代表数名が4月3日の万博開幕から何度も会場を訪れました。日本コーナーでは駐日イギリス公使オールコックが蒐集した品々が陳列されていました。しかし、陶器や甲冑にならんで蓑笠、草履、火消装束などが展示されており、使節団の随員である淵辺徳蔵は「見るにたえず」との感想を自身の日記に残しています。このほか、一行は国会議事堂や大英博物館を見学し、リヴァプールやバーミンガムへも足をのばしました。

 5月17日、オランダのロッテルダムに到着。ウィレム3世に謁見し、国書を捧呈します。開港開市延期承諾の覚書を交わしたのち、ハーグの石版印刷所、ロッテルダムの聾唖学校や動物園を訪ねました。7月、プロイセンのベルリンに到着。ヴィルヘルム1世に謁見し、国書を捧呈。日普修好通商条約では開港開市の期日が定められていなかったため、談判の必要はなく、その分を天文台や動物園などの視察に割くことができました。7月14日、一行はロシアのペテルブルグに着きます。19日、アレクサンドル2世に拝謁し、国書を捧呈。外相と樺太境界談判を実施します。北緯50度で国境を画定するという日本の主張は認められず、決着は明治8(1875)年の樺太・千島交換条約締結まで待たねばなりませんでした。ロシアを発った一行は再びフランスへ赴き、閏8月12日、フランスから開港開市延期の承認を得ます。同月23日、ポルトガルのリスボン着。ルイス1世に謁見。8日、開港開市延期の覚書の調印がなされました。そして出発から約1年を経た文久2(1862)年12月11日、ようやく帰国しました。樺太境界画定はならなかったものの、開港開市延期談判は成功し、使節団はその使命を概ね果たすことができました(「遣欧使節一件」『幕末外交関係雑纂』Ref.B03030102500)。

 最後に、第2回遣欧使節についてご紹介いたします。文久3(1863)年3月、通商条約に反対する孝明天皇は、幕府に攘夷の勅書を発します。これにより、幕府は列強国と朝廷との間で板挟みになりました。4月20日、遂に幕府は攘夷実行期限を5月10日とすることを上奏。5月9日、幕府は鎖港要求を各国公使に伝達しましたが、拒絶されてしまいます。これ以降、同月中に長州藩がアメリカ・フランス・オランダの各商船を砲撃した下関事件、7月には騎乗のイギリス人を行列中の薩摩藩士が殺害した生麦事件を起因とする薩英戦争、9月には攘夷思想を持った浪士によるフランス陸軍将校殺害事件が相次いで起こりました。

【画像3】前列に座っているのが、副使の河津祐邦(左)、正使の池田長発(中央)、目付の河田熙(右)。後列には、のちに岩倉使節団に参加する田辺太一(左端)、塩田三郎(中央)らが並び、これをフランスの写真家ナダールが撮影した。(国立歴史民俗博物館所蔵)

 11月25日、幕府は横浜鎖港談判を行うための遣欧使節団を組織し、条約各国へ使節受け入れの依頼を送付します。フランス公使ベルクールの協力で、まずフランスへ赴くことを決した使節一行は、12月29日、フランス軍艦ル・モンジュ号に乗船して横浜を出港しました。池田長発を正使、河津祐邦(すけくに)を副使とする総勢34名です。元治元(1864)年3月11日、フランスのパリに到着した一行は、ナポレオン3世に国書を捧呈。外相と談判を実施するも交渉は決裂します。フランス側の説得で翻意した池田らは、砲撃の賠償や下関海峡通行保証が含まれたパリ協約に調印し、他国との交渉を取りやめ、7月18日に帰国しました。

 しかしながら、幕府は使節が結んだフランスとの協約破棄をイギリス・アメリカ・フランス・オランダに通達します。この結果、四国連合艦隊が下関を砲撃するに至りました。

 以上の通り、いずれの使節も通商条約締結に係る国書捧呈や外交交渉のために各国を訪ねました。しかし、万延元年遣米使節と文久遣欧使節が帰国後に幕府から評価されたのに対して、第2回遣欧使節は交渉を中断して帰国したことにより、処分を受けます。正使の池田は禄を半減されて蟄居を命じられ、副使の河津らは閉門となりました。

<石本 理彩(調査員)>

【参考文献】
鵜飼政志『明治維新の国際舞台』(有志舎、2014年)
尾佐竹猛『夷狄の国へ―幕末遣外使節物語』(万里閣書房、1929年)
芳賀徹『大君の使節―幕末日本人の西欧体験』(中央公論社、1968年)
保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機 下関戦争の舞台裏』(吉川弘文館、2010年)
松村昌家「エドからロンドンまで―ジョン・マクドナルドの遣欧使節団同行記―」(『大手前大学人文科学部論集』5、2004年)
宮永孝『万延元年の遣米使節団』(講談社学術文庫、2005年)
宮永孝『幕末遣欧使節団』(講談社学術文庫、2006年)

1867年のパリ万博と徳川昭武一行

 1867年に開催されたパリ万国博覧会は、江戸幕府が初めて主体的参加を果たした万博であり、また幕府が初めて万博を通じてヨーロッパ諸国と外交・経済関係を築こうと試みた外交的機会でもありました。

 パリ万博参加の契機となったのは、フランス政府から届いた参加要請でした。当時、万博は産業の発展具合と共に文化や世界認識を広く発信する場と考えられ、開催国及び参加国による文化的戦争であるとも認識されていました。そのため、特にイギリスとフランスの間では、1855年ロンドンで初の万国博覧会が開催されて以来、今までにない斬新なコンセプトに基づく万博開催が国家の威信を賭けて競われていました。フランス政府は1867年の開催にあたり、より普遍的で全世界的な博覧会(Exposition universelle)の実施を掲げてヨーロッパ以外の国々への参加・出品要請を決めます。その一環として、1865年3月(以降、すべて日付は西暦とする)に日本への出品要請及び国家代表者の参列要請が初めて行われたのです。

【画像1】随行者には、昭武の傳役(教育係)として山高信離(のちの帝国博物館舘長)などに加えて、幕府からの随行要請を受けた駐日フランス長崎領事ディリー(写真内一列目右端の人物)、及びイギリス公使官付通訳アレキサンダー・シーボルト(写真内一列目左端の人物、1820年代に来日したシーボルトの長男)も含まれていました。(松戸市戸定歴史館所蔵)

 幕府は1865年当時、対内的には幕長戦争による威信低下への対抗策としてフランスとの協力関係形成を模索し、対外的には前年(1864年)の池田遣欧使節の外交交渉失敗や修好通商条約批准の勅許獲得等により、自由貿易参入・開港へと方針転換を図るなど、外国との新たな関わりを築く過程にありました。このような状況下で、1865年8月に幕府は万博参加を決定します。万博への出品・代表者派遣を通してヨーロッパ諸国と経済的・外交的交流を行い、フランスを始めヨーロッパ諸国との友好関係や経済関係の強化、また国内外での威信強化を図ろうとしたのです。参加受諾直後より幕府は単独で出品物収集を行いましたが、翌1866年4月に諸藩へ出品を呼びかけ、佐賀藩と薩摩藩が幕府の統括する展示に藩単位で参加しました。そして同年12月に、徳川慶喜の名代として、彼の異母弟・徳川昭武の派遣を決定しました。

 パリへの昭武派遣に際しては、全権使節に勘定奉行格外国奉行の向山一履が任ぜられ、そのほか勘定格陸軍付調役に渋沢篤太夫(のちの栄一)など、計30名程が随行しました。昭武一行は1867年2月15日に横浜を発ち、インド回りで同年4月3日マルセイユに入港し、その後陸路で同年4月11日パリに到着。同月28日に皇帝ナポレオン三世に謁見し、国書を奉呈しています。

【画像2】区画内の展示は美術・工芸品や農産物が中心で、武器(刀、武者人形等)や紙工品(和紙、書籍、錦絵等)、布工品(絹織物、官服等)、各種工芸品(漆器、陶磁器等)等が出品されました。図は武者人形。(“ L'Exposition Universelle de 1867 illustrée” vol.1, p.188、THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY)

 さて、1867年4月、パリ市内シャン・ド・マルスを会場に、パリ万国博覧会は開幕しました。同年10月の閉幕まで、日本は清国・シャム(現在のタイ)と共同で与えられた、会場全体の128分の1の面積の区画のうち、その半分を使用して展示を行いました。展示は大変好評で、それまで清国と混同されがちであった”日本”が独立した国家であるとの認知が普及し、1855年ロンドン万博に端を発するジャポニスム流行は更に勢い付きました。

 一方で、展示に参加した薩摩藩と展示区画での国名表記などをめぐるトラブルが発生し、その報道によって幕府と諸藩の関係性への疑問が広まってしまいます。この騒動が幕府に対する信頼に影響し、渡航前に決まっていたフランス政府からの借款を断られてしまいました。そのため昭武一行は外国の地で資金難に陥り、薩摩藩との交渉に当たった全権使節の向山はこの責を負って帰国を命ぜられました。

 昭武は到着後、万博公式行事や晩餐会等に出席し、各国王族や指導者たちと積極的に交流しました。昭武派遣の目的のうち、ヨーロッパの宮廷外交に参加し幕府として外交的接点をもつことは重要でしたが、別の目的もありました。それは、昭武の海外留学です。万博参加の名目で渡航し、現地でのフランス語や各種学問の習得等を通じて、これからの幕府に資する国際的教養ある人材となることが求められたのです。パリ滞在中、昭武はフランス語に加えて乗馬や西洋画など幅広い分野を家庭教師に付いて一日中学んでおり、大変忙しい日々を送ったようです。また昭武は、万博関連行事がひと段落すると、1867年9月から12月の間に、スイス・オランダ・ベルギーやイタリア・英領マルタ島、及びイギリスを三度に分けて巡歴し、各地為政者との交流や現地視察を行いました。この留学は万博終了後・幕府崩壊後も継続予定でしたが、1868年5月明治新政府より帰国命令が届いたことと、水戸徳川家当主の徳川慶篤(慶喜・昭武の実兄)逝去により同家相続の必要に迫られたことを機に帰国が決まり、同年12月に帰国しました。

【画像3】展示区画に作った日本庭園内に、武蔵国の商人清水卯三郎と吉田二郎が茶店をあつらえ、その茶店内で三人の日本人女性が過ごす姿を見せたことは、大きな話題となりました。 図は日本の展示区画内に建造した、茶店内の様子。(The Illustrated London News, 16th Nov. 1867, 横浜開港資料館所蔵)

 以上のように、幕府による1867年パリ万博への参加は、様々な結果をもたらしました。自由貿易促進の観点では、ジャポニスム流行の本格化と日本製品(特に工芸品)の輸出需要が生じたことで、明治政府下での万博参加や工芸品輸出政策の礎となるなどその後に大きな影響を及ぼしました。一方、幕府の威信の対外的宣伝という観点では、薩摩藩とのトラブルの影響等もあり、外交上の不信を招く結果となりました。また昭武派遣も、宮廷外交への参加等による各国為政者との関係形成や国際的教養の修学は順調でしたが、大政奉還のため幕府の治世にその実りが還元されることはありませんでした。

 結果として、この万博参加は、幕府にとっては成功と失敗が混在する出来事であったと言えるでしょう。

<福江 菜緒子(調査員)>

【参考文献】
尾佐竹猛『夷狄の国へ―幕末遣外使節物語』(万里閣書房、1929年)
大庭邦彦「徳川昭武にとっての滞欧体験—「徳川昭武日記」を読む」(松戸市戸定歴史館編・宮地正人監修『徳川昭武幕末滞欧日記』山川出版社、1999年)
柏木一朗「松戸徳川家伝来の慶応三年遣仏使節関係史料について」(同上)
渋沢史料館編『渋沢栄一、パリ万国博覧会へ行く』(渋沢史料館、2017年)
寺本敬子『パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生』(思文閣出版、2017年)
宮永孝『プリンス昭武の欧州紀行——慶応3年パリ万博使節』(山川出版社、2000年)

清朝によるバーリンゲーム使節団派遣と西洋への眼差し

 アメリカ、サンフランシスコ近郊にバーリンゲームというところがあります。ここは、初代アメリカ駐清公使であったバーリンゲームの名が冠せられた街です。バーリンゲーム(Anson Burlingame、1820-1870)は、中国語名では蒲安臣(ほあんじん、Pu Anchen)と呼ばれる弁護士出身の政治家で外交官に転じた人物です。1868年、バーリンゲームは自らを実質的な団長とする遣欧使節団を率いました。これは岩倉使節団が派遣される約3年前のことです。

 本使節団の派遣は、太平天国やアロー戦争といった内外の危機と国際情勢に迫られた結果でした。当時、1858年に締結した天津条約の10年毎の改訂交渉の時期が目前に迫っていました。総理衙門は条約相手国からの急激な門戸開放や改革の強制といった要求を回避すべく、条約締結国の本国から「協力政策」への支持をとりつけることを望んでいました。それに加え、西洋諸国は公使を北京に常駐させていたので、中国の事情を十分に了解していました。その一方で、清朝は外国に使節を派遣したことがなかったため、西洋の事情を詳しくは知らず、またそのことで不利益を被っていると痛感していたので、遣外使節の派遣を決めました。しかし、その派遣にふさわしい人選に難航してしまいました。そうした時期に開かれたバーリンゲームの任期満了による帰国の送別会をきっかけにして、清朝は彼を欽差大臣(特命全権大使)に任命しました。

【画像1】バーリンゲームの肖像写真。1859年の出版物に掲載されたもの。
Library of Congress, LC-DIG-ppmsca-26565

 使節派遣の際に、総理衙門の役人であった志剛と孫家穀をバーリンゲームと同格の欽差大臣に任命し正使としました。彼らの派遣はバーリンゲームの交渉活動を監督すると同時に、彼らにも対外交渉の経験を積ませるためでした。また2人の外国人をアシスタントにしたほか、中国人随員30名も同行させました。

 1868年2月25日、上海を出発し、長崎、横浜などを経由しながら太平洋を横断し、アメリカへと渡りました。アメリカではサンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンなどを訪問した後、イギリス、フランス、スウェーデン、デンマーク、オランダ、プロイセン、ロシア、ベルギー、イタリア、スペインの順に条約締結国を訪れました。しかし、不運にも旅の途中の1870年2月23日に、ロシアのサンクト・ペテルブルクでバーリンゲームが急逝してしまいました。これ以降、志剛が使節団のリーダーとなりましたが、外遊を通して外交能力が鍛えられていたので、残りの行程も無事こなすことができました。1870年10月18日に上海に到着し、同年11月18日に北京へと戻ってきました。

 1868年7月28日、バーリンゲームは「天津条約追加條款」(バーリンゲーム条約、全8条)をアメリカ側と独断で締結しました。しかし、これは在米の中国人労働者や居留民の利害を守る規定を含んでいたため、のちに清朝政府の追認を受け、批准されました。アメリカはここで内政干渉をしないと約束しました。この条約を通して、清朝はアメリカでの領事館の開設許可を得るなど近代的な外交使節制度や学童のアメリカ留学への道を開きました。またバーリンゲームは、ロンドンでイギリス政府と交渉し、その結果イギリス政府が「清側が条約を守るならばその独立と安全上で相容れないような非友好的圧力を加えず、地方官憲よりむしろ清朝の中央政府を相手にすることを望む」という声明を発しました。このように、本使節団はある一定の範囲ではありましたが、外交上の使命を果たすことができました。

 また参加者たちはこの訪問での様々な体験を通して新しい思想を吸収しただけでなく、外交能力も身につけることができました。その結果、張徳彜や鳳義などのような随員のなかから通訳官や外交官として活躍するものたちを輩出しました。

【画像2】バーリンゲーム使節団の図。後列中央の洋装かつ髭をたくわえた男性がバーリンゲーム。前列右から2人目が正使で欽差大臣の孫家穀、3人目が同じく正使で欽差大臣の志剛。Library of Congress, LC-USZ62-42697

 本使節団の記録には参加者による報告書や旅行記があります。これらは「出使日記」と呼ばれるジャンルに含まれており、そのほとんどは「原史料」ではなく、記載内容は執筆時から印刷・出版に至るまでの過程で手が加えられています。本使節団の記録の一つである志剛の『初使泰西記』も他者によって編集・出版され流通したものです。その内容は、各国政府との交渉成果や外交使節としての交際に関わる見聞、民間人との会話や新聞報道の報告などであり、本使節団の報告書としての側面も兼ね備えています。そのほか、同じく正使であった孫家穀による『使西書略』や通訳の張徳彜による『欧美環遊記』などがあります。張徳彜は、清朝初の海外視察団であった斌椿視察団に随行して以降、バーリンゲーム使節団も含め、計8回の海外渡航のなかで通訳官から公使にまでなった人物であり、彼は全ての渡航において詳細な旅行記を残しました。これらの記録により、清末の官僚の世界に対する認識や見聞、その思想の変遷などについて垣間見ることができます。

 バーリンゲーム使節団と岩倉使節団は類似する遣外使節団としてよく較べて語られることがあります。岩倉の場合のフルベッキやバーリンゲームの場合の総税務司ロバート・ハートというように、ともにお雇い外国人によるお膳立てによる派遣であるという共通点がありますが、両者のあり方は異なっていました。岩倉使節団は西洋の富強と日本の遅れを日本政府の上層部に痛感させました。一方、バーリンゲーム使節団は西洋の物質文明や風俗習慣に強烈な関心を示しましたが、そこに根付く社会制度や精神文化にはあまり興味を示しませんでした。また上述した清朝の場合と異なり、同時期の日本は幕末に数度にわたって外交使節を派遣したことによってある程度、西洋の状況を理解していました。そのため、岩倉使節団は近代的な制度や文物の実地調査とその摂取方法の研究を目的の一つとしており、また多数の留学生を帯同させました。このように、両者は西洋に対する見方や性格を異にしていました。

<矢久保 典良(調査員)>

【参考文献】
青山治世「清末の出使日記とその外交史研究における利用に関する一考察」(『現代中国研究』22、2008年)
王暁秋「清末中国における欧米使節団」(『大妻比較文化:大妻女子大学比較文化学部紀要』13、2012年)
岡本隆司・箱田恵子・青山治世編『出使日記の時代―清末の中国と外交』(名古屋大学出版会、2014年)
黄逸「岩倉使節団とバーリンゲーム使節団に関する先行研究についての考察」(『文化交渉:東アジア文化研究科院生論集』7、2017年)
黄逸「近代中日の遣外使節団とお雇い外国人の助言:バーリンゲーム使節団と岩倉使節団の場合」(『東アジア文化交渉研究』11、2018年)
阪本英樹『月を曳く船方-清末中国人の米欧回覧』(成文堂、2002年)
佐々木揚『清末中国における日本観と西洋観』(東京大学出版会、2000年)
坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973年)
横井和彦、高明珠「中国清末における留学生派遣政策の展開―日本の留学生派遣政策との比較をふまえて」(『経済学論叢』第64巻1号、2012年)
Williams, Frederick Wells "Anson Burlingame and the First Chinese Mission to Foreign Powers", Charles Scriber's Sons, New York, 1912
陸旭「關于晩清蒲安臣使團的兩個問題」(『千里山文学論集』80、2008年)

【資料】
志剛編『初使泰西記』(『近代中国史料叢刊』續編第23輯、台北・文海出版社、1975年、および鐘叔河主編『走向世界叢書』長沙・湖南人民出版社、1981年、所収)
張徳彜『欧美環游記:再述奇』(鐘叔河主編『走向世界叢書』長沙・湖南人民出版社、1981年、所収)

幕末から明治初期の西洋文明紹介

  岩倉使節団として渡航した多くの官僚たちは、欧米各国で政治制度から各種産業に至るまで多くのものを見聞してきました。しかし、使節団が目撃したような西洋文明に対する関心は、幕末の時代から書物を通して幅広い人々に共有されていました。また、岩倉使節団が渡航した明治初年の時期は、西洋文明を紹介する書物がかつてないベストセラーとして多くの人々に読まれた時期でもありました。幕末から明治初期の時期、日本の人々はどのような書物によって西洋文明に接してきたのでしょうか。

【画像1】魏源の『海国図志』(国立公文書館所蔵、請求番号:292-0193)

 まず幕末の日本において西洋文明紹介として広く読まれたのは、中国・清の官僚、魏源による『海国図志』でした。アヘン戦争後に編纂された『海国図志』は、世界各国の地理に加え、各国の歴史や国情、造船や鋳砲といった軍事技術に関する記述を盛り込んだ、中国における初の本格的な近代西洋文明の解説書でした。『海国図志』は禁書として幕府に秘蔵されていましたが、当時勘定奉行だった川路聖謨の目に止まったことで校訂を施された上で出版され、さらに漢学者と蘭学者の協力により『海国図志』のわかりやすい和刻本が出版されたことにより、『海国図志』は日本の幅広い読者層に広まっていきました。

 このとき『海国図志』から大きな影響を受けた重要な人物として、兵学者の佐久間象山が挙げられます。象山は『海国図志』の内容を批判的に受容した上で「海防八策」を書き上げ、西欧の科学技術を採用して日本の独立を守ることを訴えました。一方で、象山は道徳や倫理の面では西洋よりも東洋が勝るという考えを持っていたため、科学技術の導入以上の制度改革にまで注目することはありませんでした。『海国図志』に接した日本人の中には、橋本左内や横井小楠のように『海国図志』の内容の中でも産業の発展や世襲でない政治制度といった科学技術以外の要素に注目した人々もいましたが、多くの人々は象山のような「和魂洋才」の考えに基づいて西洋文明を理解していました。

 このような『海国図志』に基づいた西洋文明理解を塗り替えたのが、福沢諭吉のベストセラー『西洋事情』でした。福沢は中津藩の下級武士の出身でしたが、緒方洪庵の適塾でオランダ語を学んだ後に英学に転じ、咸臨丸の渡米や文久遣欧使節に参加することで西洋文明を学び、その経験を生かして『西洋事情』を書き上げました。

【画像2】『西洋事情』を書いた福沢諭吉(東京大学史料編纂所所蔵)

 福沢は欧米で西洋文明を学ぶに当たり、案内人に連れられて各所を視察するだけでなく、現地の人間に話しかけて事情を聞いたり、視察したものの背景にある運営方法や社会制度を調べたり、現地で図書を購入して調べるという、それまでにない学び方を実践しました。この実践を踏まえて書き上げられた『西洋事情』は、科学技術は西洋文明の「末」でしかなく政治制度や政治文化こそが西洋文明の本質(「経国の本」)だと主張した点や、西洋の個別の国家を超えて西洋文明全体に共通する政治制度や政治文化を発見しようとした点で、西洋文明をより深く理解することを可能にする書物でした。

 また、自由や平等といった西洋の政治制度や政治文化の概念を、漢文の『海国図志』の記述に頼らず、福沢が自ら翻訳することでわかりやすく説明したという点でも、『西洋事情』はそれまでにない西洋文明紹介だったと言えるでしょう。

 この福沢の『西洋事情』とともに西洋文明の解説書として明治初年にベストセラーとなったのが、中村正直の『西国立志編』でした。中村は23歳で昌平黌教授となり漢学者として名を馳せていましたが、1866年の幕府イギリス留学生団に30代にして参加し、その際に手に入れた英国人作家・スマイルズの著作『自助論』を『西国立志編』という名前で翻訳しました。

【画像3】『西国立志編』を書いた中村正直(東京大学史料編纂所所蔵)

『西国立志編』はイギリスや欧米における様々な偉人の生涯を紹介した書物ですが、これを翻訳により紹介した背景には、西洋文明の力の源泉を軍事力ではなく国民各自の倫理意識に見出そうとする中村の認識がありました。このような西洋の倫理意識、特にヴィクトリア時代のイギリスの勤労倫理を日本語で論じるにあたり、中村は儒学における聖人君子論や「天」「上帝」といった概念を活用し、儒学の中に平等主義や普遍主義を見出して説明しました。

『西国立志編』は、日本における儒学の教養を活かしながら西洋の倫理をわかりやすく説明し、個人の倫理観の改造を目指したという点で、福沢の『西洋事情』と並んで西洋文明へのより深い理解を可能にする書物だったと言えるでしょう。

 現在、福沢の『西洋事情』と中村の『西国立志編』は、同様にベストセラーとなった内田正雄による地理書『輿地誌略』と併せて「明治の三書」と呼ばれています。

<番定 賢治(調査員)>

【参考文献】
遠藤泰夫「黒船騒動下のアメリカ学――1854年「海国図志」翻刻をめぐって」(『比較文学研究』51、1987年)
平川祐弘『天ハ自ラ助クルモノヲ助ク――中村正直と『西国立志編』』(名古屋大学出版会、2006年)
平山洋『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房、2008年)
松沢弘陽『近代日本の形成と西洋経験』(岩波書店、1993年)
源了圓「幕末・維新期における『海国図志』の受容――佐久間象山を中心として」(『日本研究』9、1993年)
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