解説コラム
岩倉使節団とその写真
今回のインターネット特別展「岩倉使節団」のメインビジュアルとして、トップページに岩倉使節団の集合写真を掲げました。
写真には5人の男性(右から大久保利通・伊藤博文・岩倉具視・山口尚芳・木戸孝允)が並んでおり、それぞれにポーズを取っています。この写真は岩倉使節団に関する写真として特に有名で、今回提供を受けた山口県文書館「毛利家文庫」のほか、国立歴史民俗博物館「旧侯爵大久保家資料」、日本カメラ博物館「森有礼旧蔵アルバム」など、日本各地に現存していることが確認されています。
ところで、この写真は、いつ、どこで、いかなる目的で撮影されたのでしょうか。
また、なぜ1枚だけではなく、各地に多く存在するのでしょうか。
岩倉使節団の公式記録である「大使信報」によると、1872年1月20日(明治4年12月15日)の記事に「当日午後一同需ニ応シテ写真ヲ取ル」とあり、この日の午後に使節一同で写真を撮影したことが分かります。
また、随行員の久米邦武が記した「奉使欧米日記」には、同日の記事に「第二字より使節米公使諸官員一同に写真をなす」とあり、午後2時に使節や米国公使デロングたちと写真撮影に赴いていることが分かります。
このことから、この集合写真は、使節団がサンフランシスコに到着して10日後に撮影されたと考えられます。
撮影は、サンフランシスコのモンゴメリー通りにあった、Bradley&Rulofson Galleryにおいて行われました。地元紙San Francisco Chronicleの当時の記事では、使節たちが同ギャラリーを訪れて大きな写真(a large photograph)を撮影したこと、撮影された写真を見て使節らがとても喜んだこと、が伝えられています。
集合写真のなかの岩倉は羽織袴の装いですが、これとは別に、狩衣姿の写真を同ギャラリーにおいて撮影しています。伊藤も同ギャラリーにおいて単独写真を撮影しているほか、木戸や大久保は同じモンゴメリー通りにあったWatkins’ Yosemite Art Galleryにおいてポートレートを撮影しています。また、ニューヨーク・ロンドン・パリ・ベルリンなど、歴訪する欧米各国において写真撮影がなされました。
このように、使節らは写真撮影に高い関心を払っていたことがうかがえます。では、こうした使節団の写真は、何のために撮影されたのでしょうか。
これを解く鍵が、写真の裏面に記されています。トップページに掲げた、3人の男性の集合写真を例に見てみましょう。
被写体となっているのは、右から田辺太一・安藤忠経・大鳥圭介の3人で、田辺と安藤は使節団に随行した書記官、大鳥は外債募集のために派遣された理事官吉田清成の随行員でした。
この写真の裏面には、墨書きが確認できます。まず、「皇八月九日 英国◇(クチへんに蘭)噸」という記載が確認できますが、これは和暦8月9日にロンドンで撮影された写真であることを物語っています。その下には、3人がそれぞれ自筆にて署名を記しています。その横には、やや大きめの文字で「榎本梁川盟台」と書かれていますが、これは榎本武揚の雅号に敬称が付されたものです。
この写真が榎本家に伝わっていたことからも、この写真は田辺ら3名から榎本の手に渡ったものと推測することができます。
近年の研究では、19世紀のヨーロッパにおいては、写真を贈り合う「風儀」があったことが指摘されています。幕末日本に写真技術の導入を図った一人である薩摩藩主島津斉彬も、こうした「風儀」を意識した上で、家臣らに写真技術の研究に従事させました。
現存している明治期の写真には、田辺らの写真のように、被写体である本人の署名が「拝」の文字とともに記され、「呈」の文字とともに贈り相手の名が記入されているものが多数確認できます。集合写真に写された3人は元幕臣という共通点がありますが、受取主である榎本も元幕臣、彼らはいわば旧知の間柄でした。
つまり写真は、親しい相手に贈ることを目的として、撮影されたのでした。
事実、岩倉の写真は、日本の友人・大原重実のもとに私信とともに届けられています。
大原の書翰によると、狩衣姿の写真が届いたところ、岩倉家では居間の鴨居に額に入れて飾っており、まるで「魔除の御札」のようだと喩えています。
また、岩倉が洋服に改めた写真が届けられると、連日の「肉食」のためか「格別御肥」になった、と岩倉のふくよかな姿を茶化しながらも健康な様子を喜んでいます。
使節団の集合写真は、記念のために撮影されたのではなく、先述の「大使信報」に記されていたように、他者からの「需ニ応シテ」撮影されたものでした。この時、使節に同行していたデロングは、連日饗宴や会食が催されることを踏まえ、彼らに宴席に集う現地要人に贈るための写真を撮影することを、使節に勧めたのではないでしょうか。
そして、各地で開催された社交の場において交わされた写真の数々は、受け取った者の手許でアルバム帖に仕立てられるなどして、今日にその姿を留めているのです。
菅原彬州「岩倉使節団の写真」(『まげい』4、グループまげい、1982年)
川﨑華菜「幕末期薩摩藩の写真技術導入」(『中央史学』37、中央史学会、2014年)
保谷徹「江川文庫調査と古写真コレクション」(江川文庫編『写真集 日本近代化へのまなざし』吉川弘文館、2016年)
久米邦武の漢学素養と『米欧回覧実記』
岩倉使節団が欧米諸国で見聞した内容は、大使付の記録官であった久米邦武が編纂した『米欧回覧実記』により知ることができます。この書の大きな特徴として、欧米諸国に関する記録にもかかわらず、漢文を読み下した文体、すなわち漢文訓読体で書かれていることがあります。
近世の知識人は、学問の基礎を養うために、幼いころから漢学を学習しました。漢学は、中国の漢籍に関する学問です。とくに儒教の四書五経などの素読、講義、会読及び詩文の実作といった学習課程を通して、漢文を繰り返し読み書きしたり、議論したりすることによって、学問をするために必要な思考方法や言語能力を訓練しました。そうして築き上げられた学問の基礎は、洋学など他の学問を理解する際にも応用できました。
そのため当時の知識人の間では、知的な文章を書くときは漢文によって表現する習慣がありました。佐賀藩の藩校弘道館の教諭であり、優秀な漢学者として知られた久米が、『米欧回覧実記』を漢文訓読体によって書いたことも納得できます。
興味深いのは、岩倉使節団一行が鑑賞した「太平楽会」の記録です【画像1】。これは1872年6月17日から7月4日まで、南北戦争終結や普仏戦争講和による世界平和を記念して、ボストンで開かれた音楽会です。近年の研究により、久米たちが鑑賞した日には、バッハのコラール「神のみ旨の成らんことを」や、ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番などが上演されたことが分かっています。そして久米はその様子についても漢文を駆使して表現しました。
久米はまず、「午後三時楽始マリ、伶人(れいじん)律ヲ調ス」と音楽の始まりを記します。それに続いて、「響キ行雲ヲ遏(とど)メ瀏湸(りゅうりょう)タリ」と書き、その響きは流れ行く雲を止めてしまうほど清らかで美しいと表現しました。この「響キ行雲ヲ遏メ」という表現は、実は中国の古典である『列子』「湯問(とうもん)篇」にみえる一文と同じです。「湯問篇」にある故事に、歌の響きが流れ行く雲を止めたという一文があり、久米はそれを引用して響きの美しさを表現したのです。
その後、「謡婦」、すなわち女性歌手が登場し、歌を披露します。すると久米はその歌声について、「細ナルハ切切(せつせつ)、縵ナルハ嘈嘈(そうそう)、…」とその抑揚を表現し、「珠玉盤ニ迸(ほとばし)リ、金石ミナ鳴ル」と結びました。「金石ミナ鳴ル」を除く部分は、唐の詩人・白居易の「琵琶引」からの引用です【画像2】。
白居易は、琵琶の大小各絃によって奏でられる音の抑揚を、激しい雨や囁き声に譬えながら、それらの音が入り乱れる様子について、大小の珠が玉盤に零れ落ちるようであると筆を尽くして描写しました。これは当時の知識人の間では有名な琵琶の演奏描写であり、音の抑揚を形容するときによく引用される表現でした。
続いて注目すべきは、高らかに歌い上げる場面を表現した、「高唱一声、鏗爾(こうじ)トシテ金声(なれ)ハ、余音裊裊(じょうじょう)トシテ、縷(いと)ノ如ク絶ヘントシ、乍(たちま)チ一転シテ玉振ス、鳳凰(ほうおう)来儀ノ致(おもむき)アリ」という部分です。これは複数の漢文を組み合わせて構成されています。
「鏗爾トシテ金声ハ、…乍チ一転シテ玉振ス」というのは、楽器が鳴って音楽が始まり、音楽が終わる様子を表現しています。この表現は、四書の1つである『孟子』「万章篇」にある成句をアレンジしたものです【画像3】。「万章篇」には、「金声」すなわち鐘を鳴らして音楽を始め、「玉振」すなわち磬(「けい」と読む。玉製の打楽器)を打って音楽が終わるとあります。
その成句に挟まれた、「余音裊裊トシテ、縷ノ如ク絶ヘントシ」とは、歌声が伸びやかに続く様子を表現しています。この表現は、北宋の詩人・蘇軾の代表作「前赤壁賦」からの引用です。「前赤壁賦」にみえる、洞蕭(「どうしょう」と読む。笛の一種)の響きを嫋(たお)やかで糸が続くようだと嘆じた一文がそれでしょう。
そして「鳳凰来儀ノ致アリ」とは音楽に対する賛辞ですが、これは五経の1つである『尚書』「益謖(えきしょく)篇」が出典です。「益謖篇」には、中国古代の帝王・虞舜(ぐしゅん)の音楽をすべて演奏し終えたとき、鳳と凰(雄と雌の霊鳥)がやって来て舞い、容儀ある姿を示すとあります。帝王の德の行き渡った太平の世の象徴と解釈され、平和を記念する太平楽会の締めくくりにもふさわしい表現といえるでしょう。
このように、久米は音楽の様子を漢文によって表現しました。現代の読者が手掛かりなしにこれを読むと、何を伝えたいのか想像しにくいかもしれません。しかし、学問の共通言語が漢文であった時代、慣れ親しんだ漢文の表現を用いた方が、読者は受け入れやすかったと考えられます。ましてほとんどの日本人が本格的な西洋音楽を聴いたことがなかったことをふまえると、久米もそのような事情をよく理解していたと推測されます。
なお、このような音楽体験は久米の心に強く印象付けられたようです。とくに、ヴェルサイユやベルリンで体験したオペラに日本の猿楽との共通性を見出した久米は、帰国後に、同じ体験を共有した岩倉具視と共に新たに能楽として復興し、近代能楽研究の端緒を開きました。それも特筆すべき業績の1つでしょう。
大隅和雄「久米邦武と能楽研究」(大久保利謙編『久米邦武の研究』久米邦武歴史著作集別巻、吉川弘文館、1991年)
中村洪介著、林淑姫監修『近代日本洋楽史序説』(東京書籍、2003年)
蔵原三雪「洋学学習と漢学教養―幕末維新期の学問動向のなかで」(幕末維新期漢学塾研究会・生馬寛信編『幕末維新期漢学塾の研究』溪水社、2003年)
鈴木健一『江戸詩歌史の構想』(岩波書店、2004年)
奥中康人『国家と音楽―伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社、2008年)
辻本雅史『思想と教育のメディア史』(ぺりかん社、2011年)
竹村英二『江戸後期儒者のフィロロギー―原典批判の諸相とその国際比較』(思文閣出版、2016年)
欧米の目からみた岩倉使節団
岩倉使節団は1年10ヶ月をかけて欧米各国を歴訪し、さまざまな西洋文明を視察しました。
【画像1】は、岩倉使節団がドイツのエッセンを訪れた際、クルップ社の銃砲製造場を視察した様子を描いたものです。裃を纏った武士が大砲の砲身をのぞき込んでおり、「文明を覗き込んでいる」とのキャプションが付されています。このイラストは、現地の諷刺新聞に掲載されたもので、その名の通りユーモアに満ちた諷刺という観点から作成されたものでした。
では、実際に欧米の人びとは、使節団一行をどのように見ていたのでしょうか。
訪問各国で最初に注目されたのが、使節団の風貌です。使節団が最初に訪れたアメリカの現地新聞「サンフランシスコ・クロニクル」は、大使岩倉具視の印象を次のように報じています。
”大使は洗練されて知的な風貌をたたえており、温かく好ましい人柄と同時に威厳と風格を備え持っていた。彼は一目見ただけで人に強烈な印象を与えたのである。”
各紙の記事からは、副使の面々についても、その印象を窺い知ることができます。木戸孝允は「目も大きく、全体的に感じの良い風貌」、大久保利通は「大変知的な風貌の持ち主で、少しほつれたような長い頬ひげと口ひげとを気どって蓄えている」などと紹介されており、総じて好印象であったことが分かります。
また、伊藤博文については、彼の語学力にも注目が集まりました。サンフランシスコで披露された伊藤の演説は大きな好評を博し、「これは晩餐会後のテーブルスピーチとして最高の見本のひとつ」との賛辞をもって報じられています。
さて、訪問各国では国家元首との謁見が行われ、現地新聞はこぞって関係記事を掲載しました。そのなかで一際言及されることが多いのが、使節団員の服装です。例えばロシア皇帝アレクサンドル2世との謁見について、「サンクト・ペテルブルグ通報」は次のように報じています。
”使節団の団員たちは金糸の刺繍をたっぷり使ったヨーロッパ式の礼装で、金色の飾り筋付きの白のズボンをはき、金の刺繍と羽飾りのついた三角の帽子を被っていた。”
欧米歴訪中に岩倉が洋服を纏うようになったことは有名な逸話ですが、ロシアに到着する頃には、使節団員の洋装はすっかり板につき、「まったくヨーロッパ人のよう」であったといいます。
ただし、使節団員が洋装を受け入れることについては、必ずしも好意的な反応ばかりではありませんでした。例えば、フランス大統領ティエールとの謁見時の使節団について、「リュニヴェール・イリュストレ」は次のような記事を掲載しています。
”上院議員のなりをした日本人とは!なんと悲しい仮装行列ではないか!派手な色彩の絹の着物、細い藁で編んだ円錐形の帽子という彼らの民族衣裳のほうがよほど好ましかったのに。”
使節団員の洋装を「仮装行列」と揶揄する背景には、当時のパリで流行していたオリエンタリズム(東洋趣味)がありました。着慣れた和装を脱いで「最新流行のスタイル」を取り入れる使節団員の姿は、他の国においても、失意と皮肉を込めて報じられています。
使節団は各国元首への聘問のほかに、西洋文明の視察を目的としていました。使節団が各地の工場を視察する様子について、各国の現地新聞は詳細な記事を掲載しています。例えば、イギリスのバーミンガムにおけるガラス工場視察について、「バーミンガム・デイリー・ポスト」は次のように報じています。
“使節団はチャンセ氏の工場の附属施設に強い興味を示した。通訳を通していくつかの質問をした。それに対する答えは久米が記録していた。”
この記事からは、使節団が通訳を介して熱心に質問し、その内容を久米邦武が記録に留めている様子が伺えます。「寸暇を惜しんで情報収集に専心」する使節団の姿は、アメリカ・フランス・イタリアの現地新聞でも盛んに報じられています。
西洋文明を学び取ろうとする使節団員の熱意を目の当たりにしたイタリアの現地新聞「ガゼッタ・ディターリア」は、期待と警戒を込めて、次のような一文を読者に投げかけています。
”日本は大いに文明化して、陸海軍事力も増強され、今彼らが大いに関心を抱いて訪問しているこの古きヨーロッパなど、一口で食べてしまうに相違ない”
明治維新を迎え、日本が近代国際社会の仲間入りを果たしつつあるなか、岩倉使節団は西洋文明を精力的に視察するとともに、西洋文化の受容を体現しました。お雇い外国人のベルツは日本の急激な西洋化を”salto mortale“(死の跳躍)と表現しましたが、使節団が訪問した国の人びとも、彼らが西洋文化を取り入れていく姿を好感と失望、期待と警戒の入り交じったまなざしで見つめていたのでした。
森川輝紀「英国の新聞報道にみる岩倉使節団」(『埼玉大学紀要 教育科学(Ⅱ)』28、埼玉大学教育学部、1979年)
シドニー・ブラウン(太田昭子訳)「アメリカ西部の岩倉使節団」(田中彰ほか編『「米欧回覧実記」の学際的研究』北海道大学図書刊行会、1993年)
中村健之介「ペテルブルグの岩倉使節団関係新聞記事」(田中彰ほか編『「米欧回覧実記」の学際的研究』北海道大学図書刊行会、1993年)
太田昭子「岩倉使節団のイタリア訪問」(芳賀徹編『岩倉使節団の比較文化史的研究』思文閣出版、2003年)
松村剛「新聞に見る岩倉使節団のパリ滞在」(芳賀徹編『岩倉使節団の比較文化史的研究』思文閣出版、2003年)
※今回紹介した新聞記事は、上記の文献から引用しました。
大蔵省外債募集団と岩倉使節団
明治初年、政府はたび重なる改革を実施し、新しい国家づくりを進めました。その一方で、改革に伴う出費が膨大に嵩み、財政の逼迫化という事態が生じました。
この状況を改善するべく、政府は1873年に地租改正条例を布告して安定的な税収の確保を目指しつつ、1876年には金禄公債条例を定めて華族や士族に支給していた家禄・秩禄の整理を行いました。
こうした財政再建策の一つとして、大蔵省において検討されたのが、欧米における外債の募集でした。この計画は、外債の発行を通じて正金を確保することで、政府の財政負担を軽減しようとするもので、岩倉使節団が横浜を出港した直後の1872年1月(明治4年12月)ごろより、副使として渡米した大蔵卿大久保利通の留守を預かる大蔵大輔井上馨と大蔵少輔吉田清成のあいだで検討が進められました。
外債募集団を率いる理事官には、清成自身が名乗りを挙げました。薩摩藩出身の清成は、1865年に藩の留学生として欧米へ渡航し、1871年に帰国するまでのあいだ、イギリスやアメリカの大学に学ぶなど、豊かな海外経験を持つ人物でした。
1872年3月(明治5年2月)、清成が理事官に任命されると、彼のもとで随行員の選抜が行われました。その候補者として、幕末に蘭学兵書の翻訳を精力的に行っていた大鳥圭介や、幕府による遣欧使節の随員として2度の渡欧経験がある山内六三郎(後に差止)などの名が挙げられました。彼らはみな外国語に堪能な人物であることから、清成は語学力に優れることを随行員の選抜基準としたことが分かります。
そのなかには、吉田二郎という無名の人物もいました。
二郎は、清成や大鳥らのように武士身分の出身ではなく、武蔵国幡羅郡四方寺村(現在の埼玉県熊谷市)の百姓の家に生まれ、同村の名主吉田六左衛門の婿養子となった人物です。
二郎もまた、海外経験を有する人物でした。1867年に開催されたパリ万博において、幕府の出展が決定すると、六左衛門は水茶屋の出店を願い出ました。出店が許可されると、六左衛門は自らの代理を派遣することとしましたが、その代理人の一人が二郎だったのです。パリからの帰国後も、民部・大蔵両省に出仕した二郎は、1871年に米国展覧会御用掛としてアメリカに派遣されていました。さらに、「今般紙幣ノ儀ニ付御用申付度」として召還され、外債募集団の一員に加わることとなったのでした。
無名だった二郎が抜擢された背景には、事務官としての高い評判がありました。外債募集において二郎のサポートを受けた清成は、その書翰において、「吉田二郎なくてハ拙者ノ心配大ニ相増」すと吐露しています。また、留守政府の井上は、「本省ニ於て兎角人物乏敷」ため、二郎の早期帰朝をたびたび要請しています。
外債募集団は、1872年3月(明治5年2月)、アメリカに向けて横浜を出港しました。
理事官任命の勅旨によると、起債額は日本円換算にして1500~3000万円を目途とすることが定められましたが、アメリカでの募集は難航しました。その理由は、外債の金利について、大蔵省では6%を予定していたのに対し、アメリカでは12~25%でないと起債が叶わないためでした。
清成は、アメリカでの募集を断念し、岩倉使節団とともにイギリスに移って外債募集を継続しようとしました。募集不調の報告を受けた井上は、清成に募集の中止を命令しましたが、清成は金利額を変更してでも募集を継続すべきと主張し、さらに井上が再三にわたって募集中止を指示するという事態に陥りました。
清成は、大蔵省の最高責任者である大久保を説得し、起債額を減らすことで外債募集を継続する案への了承を取り付けました。大久保が井上らに対して金利額の変更を指示したことで、井上は外債募集の継続を承服することとなりました。
このようにして、イギリスにおいて清成・二郎らによる七分利付外債の募集が再開されました。1873年には222万ポンド(約1000万円)の調達に成功し、外債募集団はその役割を終えたのでした。
半田英俊「七分利付外債における井上馨の方針」(『法学研究』82-2、慶應義塾大学法学研究会、2009年)
栗原健一「薩摩藩士の吉田六左衛門家潜伏」(『熊谷市郷土文化会誌』71、熊谷市郷土文化会、2015年)
菅原彬州『岩倉使節団と銀行破産事件』(中央大学出版部、2018年)
岩倉使節団 30年後の再会と回想
「日本の秩序的の文明、秩序的の開化と云ふものは即ち明治四年岩倉大使の此の一行の御土産であると斯う私は客観的に歴史家として考へます」
これは1902(明治35)年に開催された岩倉大使同行紀年会に出席して挨拶した福地源一郎の言葉です。その頃、劇作・評論活動とともに歴史小説なども発表していた福地は、自身を「怪しい歴史家」と自嘲しながらも、岩倉使節団の一随行員としてではなく一歴史家として、日本に「大いなる改革を与へた」使節団の功績を回想してみせたのでした。
その失敗談の一つが、オーストリアに滞在した際に使節団一行へ届けられた重箱入りの菜漬けをめぐる顛末です。西洋料理に食傷気味となっていた岩倉大使は大いに喜んで自ら大切に保管したため、同じく肉料理に飽き飽きしていた随行員たちはなんとか菜漬けにありつこうと一計を案じます。結局、大使の外出中に拝借しようということになり、その役目を安藤が引き受けることになりました。
ある日、大使の外出を見送った後でこっそり重箱から菜漬けの一部を頂こうとしたところ、忘れ物を取りに戻った岩倉大使に見つかってしまいます。仰天した安藤に岩倉大使は「食べても良いが全部は食べるな」と言い残し再び出かけていったといいます。
ホッと胸をなで下ろした安藤でしたが、翌日の食事の席で大使は真顔で「私の部屋に盗賊が入った」と話したため、伊藤博文らが驚いて「通報せねば」と促したところ、「それには及ばぬ、盗賊はこの席にいるのだから」と答えました。そして犯人が安藤であって、盗まれたものが菜漬けであったと知った一同は大笑いしたとのことですが、菜漬けとはいえ大使の部屋に忍び込んで盗みをはたらくなど、使節団のメンバーは余程肝の据わった者たちの集まりであったことを感じさせるエピソードです。
それは先の福地源一郎も、使節団派遣を命じた「駿才を撰んで大使に随行させる」との詔勅は、「乱暴者(あばれもの)を撰んで随行させる」と同義であったと冗談ながらに語った内容とも共通しています。
その後、この岩倉大使同行紀年会の開催については読売新聞でも報じられ、盛況であった会の様子や当日の参加者の談話が「洋行の夢」と題され、連載形式で掲載されました。その中には、兵部理事官として同行した当時28歳の山田顕義が、官職が低くては肩身が狭かろうと急遽陸軍少将に任官されたものの、元来若く見える風貌であった山田は、西洋人から「将軍には若過ぎる」と言い囃され、かえって「日本の軍事の幼稚」さを見透かされたとの原田一道の回想や(1902年3月25日版)、礼拝堂で牧師の前にかしずく鉄血宰相ビスマルクの姿を見て、世の中に宗教ほど大切なものはないと気づき、日本における宗教政策の重要性を確信した木戸孝允の姿を語った何礼之の回想など(同年4月3日版)、同行者たちの新たな一面を知ることのできるエピソードが数多く掲載されています。
そのような同行者たちが経験した種々の成功談・失敗談の中にあって、アメリカにおいて予定外の条約改正交渉に踏み切った裏話を語った田辺太一の回想は大変興味深い内容です(同年3月29日版)。そもそも先行研究において明らかにされているように、岩倉使節団の任務は幕末に締結された不平等条約の改正交渉ではありませんでした。翌年(1872年)に迫った協議改定期限を前に、条約改正を打診して各国の反応を確認し、改正を延期する交渉を申し出ることがその目的とされていたのです。しかし、アメリカ到着時に熱烈な歓迎を受け新条約締結の好機ではないかと楽観した使節団メンバーは、急遽方針を転換して改正交渉に突入することになりました。そこには、駐米少弁務使森有礼の強い勧めとそれに同調した伊藤博文副使の影響があったといわれています。
その森有礼を焚き付けたのは誰であったのかという逸話が田辺によって紹介されています。それはブロックという人物で(在サンフランシスコ日本領事であったブルックス(Charles W. Brooks)のことか)、日本びいきであった彼が条約改正の意気込みを聞き、国務長官フィッシュに話を通したことが発端となったといいます。そして、思いがけず好感触の反応を得たブロックがそれを真に受けて森有礼に話し、森が大喜びで岩倉大使に伝えた結果、森の言葉を信じた大使が交渉に踏み切ったのが事の顛末であったといいます。
田辺によると、国務長官フィッシュの「かけ流しのお世辞」を真に受けたブロックの言葉が発端となって条約改正交渉が本格化し、大久保・伊藤両副使が全権委任状を請いに帰国するという大立ち回りを演じながら、結局は交渉打ち切りという「大失敗の骨頂」となってしまったということになります。
田辺をはじめ諸氏の回想の真偽について細かく検証することは困難ですが、派遣後30年の時を経て披露された回顧談の数々からは、使節団派遣によって得られた尽きることのない知識と経験の豊かさを十分に理解することができるのではないでしょうか。
この第一回岩倉大使同行紀年会に続いて、さらに10年後の1912(明治45)年には第二回岩倉大使同行紀年会が築地精養軒において開催されました。しかし、同行者の高齢化のためか出席者は17名となり、その後は会も開かれることなく自然解散となったようです。
「岩倉大使同行紀年會報告書」(牧野家文書、国立国会図書館憲政資料室所蔵)
大久保利謙編『岩倉使節の研究』(宗高書房、1976年)
田中彰『岩倉使節団『米欧回覧実記』』(岩波書店、2002年)