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地域 | 満洲国 |
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都市名 | 新京 |
解説 | 国務院司法部は、満洲国建国時の1932年3月に設置された国務院の七部の一。法院・検察庁を監督し、民事・刑事・非訟事件・その他司法行政に関する事項を掌り、総務司・法務司・行刑司の三司が置かれ、外局として法令審議委員が設置された。1933年8月に日本が満洲国における治外法権撤廃の方針を決定したことから法典立案と裁判所(法院)の整備充実が急がれ、同年秋に日本大審院検事古田正武が司法部総務司長に就任。古田が日本の若手司法官の招聘に努め、民事司長に司法書記官青木佐治彦、刑事司長に東京控訴院判事飯塚敏夫が就任したのをはじめ大量の日本司法官が満洲に進出。これをきっかけに司法省は本格的な活動を開始し、法院組織法・親族相続編を除いた民法・商法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法の立案に着手し、1936年・1937年に相次いで公布した。1937年12月の治外法権撤廃実施後は親族継承法の立案と主要司法法規に付属する諸法令の立案等が司法部の主な立法事業となった。組織変遷については、1934年3月に司法部総長は司法部大臣となり、法務司を廃して総務・民事・刑事・行刑の四司体制となった。1936年6月に司法部次長が置かれた。1937年7月に満洲国治外法権撤廃を控えた行政機構改革が行われ、司法部の監督事項に監獄が、管掌事項に行刑、民籍・地籍に関する事項が加わった。また総務部が廃止されて大臣官房が置かれ、民事司・刑事司・行刑司の三司体制に改められた。1943年4月に行刑司廃止、司法矯正総局設置。同年、保護監察所が置かれた。1943年4月27日勅令134号により行刑司廃止、勅令136号によって司法矯正総局設置。同年、勅令264号によって保護監察所が置かれた。 |
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参考資料 | 官制については、「満洲国政府公報日譯」A06031000000を参照。「政府組織法」教令第1号、1932年3月9日、「国務院官制」教令第5号、1932年3月9日、「国務院各部官制」教令第6号、1932年3月9日(『滿洲國政府公報邦譯』1932年4月1日、第1号、A06031008700、23~30画像目)。「組織法」1934年3月1日(『政府公報日譯』1934年3月1日、号外、A06031010800、10~11画像目)、「国務院各部官制中改正の件」勅令第21号、1934年3月15日(『政府公報日譯』1934年3月15日、第10号、A06031010800、65~66画像目)。「国務院官制」勅令第119号、1937年6月5日、「国務院各部官制」教令第120号、1937年6月5日(『政府公報』1937年6月5日、第954号A06031001700、67~73画像目)。郭卿友主編『中華民國時期軍政職官誌』下、甘粛人民出版社、1990年、1758、1786~1787、1794頁。満洲国史編纂刊行会編『満洲国史 総論』満蒙同胞援護会、1970年、491頁。満洲国史編纂刊行会編『満洲国史 各論』満蒙同胞援護会、1971年、372~417頁。浅野豊美「司法部」、貴志俊彦・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、2012年。副島昭一「「満洲国」統治と治外法権撤廃」、山室信一「「満洲国」統治過程論」、どちらも山本有造編『「満洲国」の研究』緑蔭書房、1995年。 |
歴代長官 部局長等 |
馮涵清・総長(1932年6月1日~1934年2月28日)/馮涵清・大臣(1934年年3月1日現在)/張煥相・大臣(1937年5月7日現在)/閻伝紱・大臣(1942年9月28日現在)/古田正武・次長(1936年6月9日~1937年12月11日)/及川徳助・次長(1937年11月11日現在)/前野茂・次長(1940年12月23日現在) |