昭和4年(1929年)に国際陸上競技連盟会長のエドストロームが来日し、早稲田大学教授で日本学生陸上競技連盟会長の山本忠興に会った際、日本でのオリンピック開催について話題がのぼりました。山本はその場で東京市での開催希望を伝えました。山本から話が東京市の上層部に伝わり、オリンピック誘致の機運がにわかに盛り上がりました。その流れで、昭和6年(1931年)10月、東京市議会で紀元二六〇〇年記念にあたる昭和15年(1940年)に東京にオリンピックを招致するための「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が決議されました。続いて、永田秀次郎東京市長は外務省に対して第10回ロサンゼルス大会を契機として、在外公館を通じてIOCに対しオリンピックの東京招致を求める活動を開始するよう要請しました。

 資料1は、永田東京市長が斉藤実外務大臣に送った要請文書です。




 昭和7年(1932年)のロサンゼルスにおけるIOCの総会で、日本代表は会長に対し東京でのオリンピック開催を正式に申請します。

 昭和10年(1935年)のIOC総会では、昭和15年(1940年)大会の開催地をめぐって東京・ローマ・ヘルシンキの三市の争いになりました。日本は杉村陽太郎駐イタリア大使を通じて、ムッソリーニイタリア首相に直接交渉を行ない、ローマの辞退を取り付けました。最終的な決定は、昭和11年(1936年)のベルリン大会まで持ち越されることになりましたが、東京市は昭和10年(1935年)末に第12回オリンピック東京市招致委員会を成立させ、具体的な準備を早くも開始しました。

 大会開催に向けて準備が進められるなかで、昭和11年(1936年)3月20日から4月9日まで、IOC会長のバイエ・ラツール伯が個人の資格で大会の施設状況を視察し、日本での開催は問題ない旨を語りました。

  資料2は、警視総監石田馨が内務・外務・文部各大臣と訪問先の各府県長官に対して送ったラツールの日本滞在についての文書で、ラツールが到着後に行なった談話の内容と訪問日程が記されています。


 以上のような経緯で、最終的に昭和11年(1936年)7月31日、ベルリン大会に際して行なわれたIOC総会において、第12回大会の開催地が東京市に決定しました。



 

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