ロシア帝国の政治家で、運輸大臣・大蔵大臣を歴任しました。 1905年(明治38年)のポーツマスにおける日露講和会議にロシア側の首席全権委員として参加した後、ロシア皇帝から伯爵位を授けられました。 ロシア政界の内情をつづった『回想録』を執筆した後、1915年(大正4年)に66歳で没。
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出  来  事
1849年
(嘉永2年)
現グルジア共和国のチフリス県に生まれる
1871年
(明治4年)
オデッサ・ベッサラビア総督府の職員となる
1889年
(明治22年)
大蔵省鉄道部長に就任
1892年
(明治25年)
運輸大臣、次いで大蔵大臣に就任
1903年
(明治36年)

大蔵大臣を解任される
 皇帝ニコライ2世は、ウィッテの権力拡大に警戒心を抱き、彼を解任させました。 しかし、ウィッテの影響力は依然として少なからぬものがありました。
(『坂の上の雲』文庫版第3巻、187〜190頁)

表 題:「アダム」女史ノ露国蔵相「ウイテ」観大要反訳報告ノ件
レファレンスコード:B03050931900
 フランスの女性記者が、当時のロシアの政治情勢について報告した記事の翻訳です。
(外務省外交史料館所蔵)

表 題:各国内政関係雑纂/露国ノ部
レファレンスコード:B03050932100
 ウィッテが大蔵大臣を解任された事を報告した、栗野駐ロシア公使の電文です。
(外務省外交史料館所蔵)

1905年
(明治38年)

日露講和条約に調印
 ロシアは日本との戦いでたびたび敗北し、国内には革命の危機がせまっていました。 ロシアは、ウィッテをはじめとする全権委員を派遣して日本側委員との和平交渉にあたらせました。
(『坂の上の雲』文庫版第8巻、269〜270頁)

表 題:御署名原本・明治三十八年・条約十月十六日・日露両国講和条約及追加約款
レファレンスコード:A03020652300
 明治38年(1905年)9月5日に調印された日露講和条約の日本語の写しです。 署名者の中に「セルジ、ウ井ッテ」(原文ママ)という名前があります。
(国立公文書館所蔵)

日本との和平交渉を終えた後、ロシア帝国の首相に就任

1906年
(明治38年)
首相を解任され、政界から引退
1911年
(明治44年)

『回想録』を執筆する
 ウィッテの自伝である『回想録』には、19世紀後半から20世紀始めのロシア帝国の内情に関する様々な逸話がおさめられており、日本語・英語・フランス語・ドイツ語の翻訳版が刊行されています。

表 題:仏国(遣外使臣会談要領報告雑件)
レファレンスコード:B03030327200
 ウィッテが外遊中、駐フランス公使栗野慎一郎に対して、伊藤博文の死去についての弔辞を述べた件の報告書です。
(外務省外交史料館所蔵)

1915年
(大正4年)
没(66歳)