関連用語集
- 江華島事件(こうかとうじけん)
- 1875年9月20日から数日間にわたって朝鮮の江華島で日本軍と朝鮮軍との間で戦闘が行われた事件です。日本の軍艦の名前をとって「雲揚号事件(うんようごうじけん)」とも呼ばれます。1868年末から、日本(明治新政府)と朝鮮との間では、国書の上での天皇を示す表現をめぐって対立が起こり、国交が成立しませんでした。1875年、朝鮮の朝廷で実権を握った閔妃一族は日本への接近をはかり、日朝交渉が開始されましたが再び対立が起き、日本政府は軍艦雲揚号を朝鮮沿岸に派遣しました。雲揚号が江華島に近づいたところで朝鮮軍との砲撃戦になり、やがて日本軍は江華島に上陸して砲台を占領し朝鮮軍の拠点を焼くなどしました。日本政府はこの事件を朝鮮側の責任とし、日朝修好条規(江華条約)の締結を迫りました。
- 甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)
- 1894年の3月頃に朝鮮の全羅道から始まり、やがて朝鮮全土に拡大した農民たちによる武装蜂起です。「東学党の乱」「東学農民運動」とも呼ばれます。1890年代に入る頃の朝鮮では、閔氏政権下での財政困難のために増税が行われたのに加え、役人の不正が蔓延し、また日本人商人による穀物の買い占めも起きており、特に農民は貧困に苦しんでいました。各地で暴動が起きる中で、農民たちの間では、人間を平等とし封建的な階級社会を否定する「東学」という民衆宗教の信仰が広まり、やがて「東学」の信者を中心とした農民軍が全羅道の古阜郡で武装蜂起しました。農民軍は日本人の追放と閔氏政権の打倒を目標に掲げてたちまち勢力を拡大し、これを鎮圧しようとする朝鮮政府軍を各地で撃破しながら、5月末から6月初頭にかけて全羅道の中心地である全州を占領しました。これに対し朝鮮政府は清国に出兵を要請、日本もまたこれに対抗して現地の日本人の保護を名目として軍隊を派遣し、やがて日清戦争勃発に至りました。一方で、6月初旬に朝鮮政府と農民軍との間では和約が結ばれたと言われ、この時点で武装蜂起は一旦治まりますがその後再蜂起が起き、12月まで農民軍と日本軍との戦いが続きました。
- 甲申政変(こうしんせいへん)
- 1884年12月4日に朝鮮の漢城で起きた、開化派の人々による朝廷での政権奪取の動き(政変)です。壬午事変の後、清国によって興宣大院君が幽閉され、再び閔妃が政権を担いました。しかし、閔氏政権は、事変の鎮圧によって朝鮮に大きな影響力を示した清国に対する依存を強めるようになりました。こうした状況に危機感を抱いた金玉均を中心とする開化派の人々は、日本に支援を要請した上で、1884年12月4日に閔氏政権の要人を殺害して政権を奪取し、高宗の承認を得て新政府を樹立しました。しかし、即座に出動した清国軍の攻撃によって新政府は間もなく壊滅しました。この時、高宗の要請をうけるかたちで日本軍が王宮の警護についていたところ、清国軍との間に戦闘が起き、結果として民間人を含む多くの日本人が被害を受けたため、日清間で戦争が勃発する危険性がにわかに高まりましたが、翌年の天津条約によって開戦は回避されました。
- 済物浦条約(さいもっぽじょうやく)
- 1882年8月30日に日本と朝鮮との間で壬午事変の事後処理として締結された条約です。壬午事変の後、日本政府は漢城に花房義質公使を再派遣する際に、事変の責任を朝鮮政府に問うとともに、現地の日本人を保護することを目的として掲げながら軍隊を同行させました。清国軍も出動して事変の鎮圧を行う一方で、日朝間の交渉が進められ、公使館警護のための日本軍の漢城への常駐、朝鮮政府による賠償金の支払い、朝鮮政府による事変についての謝罪などといった日本側の要求事項を盛り込んだこの条約が締結されるとともに、日朝修好条規の続約も結ばれ、従来の釜山や仁川などの開港地における日本の権限が強められました。
- ジェネラル・シャーマン号事件(じぇねらる・しゃーまんごうじけん)
- 1866年7月に朝鮮の平壌附近で朝鮮の兵士や民衆がアメリカの船を攻撃した事件です。1866年の7月、アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江を遡って平壌附近の羊角島に停泊し、朝鮮に対し通商を求めました。しかし当時の興宣大院君政権は鎖国政策を強め欧米諸国との交流を避ける方針であったため、朝鮮側の地方官が通商を拒否すると、両者の間で激しい衝突が起こり、最後は朝鮮の兵士や民衆がジェネラル・シャーマン号に火を放って攻撃を行い、全船員が死亡するに至りました。この事件の発生を後になって知ったアメリカ政府は朝鮮に艦隊を派遣し、辛未洋擾が引き起こされました。
- 壬午事変(じんごじへん)
- 1882年7月23日に朝鮮の漢城で起きた、朝鮮軍の兵士や民衆によって閔氏政権の高官や日本の公使館員らが襲われた事件です。「壬午軍乱(じんごぐんらん)」とも呼ばれます。1870年代半ばに実権を握った閔妃一族は開化政策をとっており、日本から軍事顧問を招くなどして特に軍隊の近代化をはかり、新たに近代的な軍隊を設立しましたが、このような政策に不満をもつ人々が、1882年7月23日に旧来の軍隊の兵士を中心に反乱を起こしました。反乱軍は閔氏政権の多くの要人に加えて新式軍の日本人軍事顧問を殺害するとともに、日本公使館を襲撃しました。花房義質公使らは脱出に成功しましたが、館員にも犠牲者が出ました。この事件の結果、朝鮮政府の実権は興宣大院君へと移りましたが、日本政府は漢城に軍隊を派遣し、清国もまた出兵して興宣大院君を拘束するなどし、日清間の緊張が高まりました。
- 辛未洋擾(しんみようじょう/シンミヤンヨ)
- 1871年5月から7月初頭にかけて朝鮮の江華島で起きた、朝鮮の軍隊とアメリカの艦隊との間の戦闘です。ジェネラル・シャーマン号事件の発生を知ったアメリカ政府は、朝鮮政府(興宣大院君政権)の責任を追及し通商を認めさせるため、1871年の5月に朝鮮に艦隊を派遣しました。朝鮮側は再び通商を拒否しましたが、アメリカ艦隊は江華島方面に向かい測量を開始、これに対し朝鮮軍が砲撃を加えたことで激しい砲撃戦になりました。その後アメリカ軍が江華島に上陸して白兵戦となり、朝鮮側に大きな被害が出ました。やがてアメリカ艦隊は引き上げ、朝鮮は引き続き鎖国体制を維持しました。
- 天津条約(てんしんじょうやく)
- 1885年4月18日に、日本と清国との間で甲申政変の際の武力衝突の事後処理として締結された条約です。甲申政変において、王宮の警護にあたっていた日本軍と、新政府の攻撃を行った清国軍との間で戦闘が起き、多数の犠牲者も出たことから、日清両国間では開戦の危機が高まりました。日本政府は全権代表として伊藤博文を清国に派遣し、天津において清国の全権代表李鴻章との交渉が行われました。その結果、日清両国について、即座に朝鮮からの撤兵を開始すること、朝鮮に軍事顧問を派遣しないこと(朝鮮が日清以外の国から招致する)、将来的に朝鮮にやむを得ず出兵を行う際には相互に通知し合い事後は駐留しないこと、以上の3点を定めたこの条約が締結されました。これによって日清両国間の開戦の危機はひとまず回避されました。
- 日清講和会議(にっしんこうわかいぎ)
- 明治28年(1895年)3月20日から日本と清国との間で行われた講和会議で、全7回にわたって開催されました。4月17日の第7回会議の場において日清講和条約が締結され、日清戦争は終結しました(これ以降も台湾での戦闘は続くこととなります)。会場は山口県の下関(当時は「赤間関市」の一部を指す地名であり、他に「赤馬関」「馬関」とも呼ばれました)にある春帆楼という割烹旅館でした。参加した両国の代表者は、日本側が、全権弁理大臣の伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣、清国側が、欽差頭等全権大臣の李鴻章北洋通商大臣兼直隷総督と欽差全権大臣の李経方元駐日本公使でした。なお、会議が始まって間もない3月24日に、李鴻章は会場から宿舎であった引接寺への帰路において、小山豊太郎(六之助)という人物から銃撃を受けて負傷し、一時会議の席から外れました。また、陸奥宗光も一時的に体調を崩し欠席しています。
- 日清講和条約/下関条約(にっしんこうわじょうやく/しものせきじょうやく)
- 明治28年(1895年)4月17日に日本と清国との間で締結された講和条約で、これによって日清戦争は終結しました(その後、台湾での戦闘は続くこととなります)。締結されたのが下関であることから、「下関条約」(しものせきじょうやく)、または下関の当時の呼び名である馬関をとって「馬関条約」とも呼ばれます。調印者は、日本側が全権弁理大臣の伊藤博文総理大臣及び陸奥宗光外務大臣、清国側が欽差頭等全権大臣の李鴻章北洋通商大臣兼直隷総督及び欽差全権大臣の李経方元駐日本公使です。条約の主な内容は、(1)清国が朝鮮を「完全無欠なる独立自主の国」であると認めること、(2)清国が日本に遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲すること、(3)清国が日本に多額の賠償金を支払うこと、(4)清国が新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開くこと、(5)日本と清国が通商航海条約を締結すること、となっています。5月8日に日清両国によって批准(国家として条約の内容に従うことを最終的に決定することです)され発効しましたが、これに先立ってドイツ、ロシア、フランスが遼東半島の割譲について即座に異議を唱え(三国干渉)、11月18日の条約をもって日本は遼東半島を清国に返還することとなりました。
- 日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)
- 1876年2月27日に日本と朝鮮との間で締結されたいわゆる不平等条約で、これにより朝鮮は鎖国を解除し開国しました。締結された場所の名前をとって「江華条約」とも呼ばれます。江華島事件の後、日本政府は朝鮮政府に対して事件の責任を追及し、その賠償として条約の締結による開国を要求しました。日本側が提示した条約の内容では朝鮮は清国の属国ではない独立国家とされており、その他にも朝鮮側が難色を示す点のある不平等条約でしたが、交渉の末に条約は締結されました。これによって日朝間の国交が成立し、それまで鎖国政策を続けていた朝鮮は開国に至りました。
- 丙寅洋擾(へいいんようじょう/ピョンイニャンヨ)
- 1866年8月から10月にかけて朝鮮の江華島一帯で起きた、朝鮮の軍隊とフランスの軍隊との間の戦闘です。1866年の1月、欧米諸国との交流を強く拒否する興宣大院君の指示によって、朝鮮国内で布教活動を行っていたフランス人の宣教師たちや多数の信徒が殺害されると、8月に駐北京フランス代理公使によって天津から軍艦が派遣され、漢江を遡って漢城附近にまで迫りました。続いて翌月には、宣教師を殺害した人々の処罰や不平等条約締結を求めてさらに多くのフランス艦隊が派遣され、江華島一帯を占領して首都漢城を封鎖すると、朝鮮軍との間で激しい戦闘となりました。10月になると、最終的にフランス軍は江華島から撤退しましたが、この間文献や宝物の略奪や建造物への放火も行い、朝鮮側でも大きな被害が出ました。