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トピック:日本兵の履物

このインターネット特別展でご紹介している版画類には、さまざまな「もの」が描かれています。日本と清国双方の兵士や将官たちの身に着けた軍服、履物、装備品、そして武器…。これらの「もの」に注目して作品を見てみた時、そこから、日清戦争という出来事の、あるいは当時の人々の、新しいイメージが浮かび上がってくるかもしれません。そしてまた、同じ「もの」でも、作品の制作された国によって、あるいは作品によって、描かれ方は非常にさまざまです。それらを見比べてみることも、新たな発見につながるかも知れません。

ここでは、戦場の日本兵たちの足元に注目してみましょう。

● どのように描かれているか

旅順口激戦之図
大英図書館請求記号: 16126.d.1(28)
タイトル: 旅順口激戦之図
BRITISH LIBRARY
本ウェブサイト内で使用されている版画類の画像はすべて大英図書館から提供されています。また、これらの画像はパブリック・ドメインに属します。
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まず、旅順での戦闘に臨む陸軍兵士たちが描かれているこの作品です。彼らが履いているのは、ブーツのような軍靴(ぐんか)ではなく草鞋(わらじ)です。黒い足袋(たび)の上から草鞋を履き、脚部を脚絆(きゃはん/ゲートル)で覆っているのがわかります。西洋式の軍服を着用しながら、足元は日本の伝統的な草鞋履きというと、少し不思議な印象を受けるかも知れません。また、戦闘用の装いとしては、草鞋では少々心許ないようにも感じられます。しかし、彼らはこの足で川も渡りながら戦っています。

第一軍雪中奉天府破ル
大英図書館請求記号: 16126.d.2(73)
タイトル: 第一軍雪中奉天府破ル
BRITISH LIBRARY
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次に、冬の奉天府での戦闘が描かれているこの作品です。雪の積もる中ですが、左の兵士(原田重吉陸軍軍曹であると記されています)は草鞋に脚絆で走っています。外套(コート)を着込んではいますが、草鞋履きの足元では寒々しくさえ感じられます。一方で、馬上の将官(野津道貫陸軍中将であると記されています)はブーツを履いています。やはり騎馬の際にはブーツを着用するのが常であったようで、他の作品でも騎兵はブーツ姿で描かれています。

大雪ヲ冒シテ我将校単身敵地ヲ偵察之図
大英図書館請求記号: 16126.d.2(43)
タイトル: 大雪ヲ冒シテ我将校単身敵地ヲ偵察之図
BRITISH LIBRARY
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こちらは激しい吹雪の中の偵察の様子が描かれた作品です。やはり馬上の士官と思われる人物はブーツ履きですが、これに従う歩兵の足元は、草鞋と同様に藁で編まれた雪靴(ゆきぐつ)のようなものに覆われているようです。2人の人物は、すべての作品の中でも最も厚く着込んでいるように見え、吹雪から目を守るためかゴーグルも装着しています。その装いが厳しい寒さと吹雪の激しさを物語っています。これほどの積雪と吹雪の中では、やはり草鞋履きで歩くのは無理だったのでしょう。

黄海之戦我松島之水兵死臨問敵艦之存否
大英図書館請求記号: 16126.d.1(1)
タイトル: 黄海之戦我松島之水兵死臨問敵艦之存否
BRITISH LIBRARY
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こちらは海軍兵士の様子が描かれた作品です。黄海海戦において被弾した艦船の甲板上で、脚に包帯を巻いた水兵、起き上がろうとする水兵、そして倒れたままの水兵、いずれも足には黒い足袋のみを着けています。こちらに向けられている足裏を見ると、足袋の底は色が異なっているのがわかります。後に登場した地下足袋(ゴム底の足袋のことで、日清戦争よりも後の時代に登場したようです)と同じように、直接地面を歩くために底に刺しを施して補強したいわゆる「鷹匠足袋」なのかもしれません。この足袋を用いることによって、水兵たちは甲板の上でも足を滑らすことなく作業ができたのでしょうか。

海洋島附近帝国軍艦発砲之図
大英図書館請求記号: 16126.d.2(85)
タイトル: 海洋島附近帝国軍艦発砲之図
BRITISH LIBRARY
本ウェブサイト内で使用されている版画類の画像はすべて大英図書館から提供されています。また、これらの画像はパブリック・ドメインに属します。
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同じく黄海海戦において、艦上から砲撃を行う水兵たちが描かれた作品です。彼らは皆足には何も履いておらず、裸足です。これならば甲板上でも滑りにくく、戦闘中の作業にも適しているところがあるのかも知れませんが、とはいえ、戦闘の中で素足でいるのは危険ではないのでしょうか。

このように、兵士たちは、必ずしも軍靴を履いているのではなく、陸軍の歩兵たちは足袋に草鞋、海軍の水兵たちは足袋や裸足で戦っている様子も多く描かれています。足袋や草鞋は日本の伝統的なスタイルであり、軍服が西洋式となっているのに対して足元だけは一歩後れを取っているようにさえ感じられるかも知れません。しかし、これらの足袋や草鞋もまた軍から支給された制式なもの、つまり軍用の装備品として扱われたものでした。

では、こうした足袋や草鞋はどのようなかたちで兵士たちに支給されていたのか、関連する公文書を見てみましょう。

● どのように記されているか

  • レファレンスコード: C06060080800
  • 件名: 6.26 第5師団 草鞋購入の上申
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これは、明治27年(1894年)6月26日、つまり、甲午農民戦争の勃発をきっかけに、まず清国軍が、次いで日本軍が朝鮮半島への駐留を開始して間もない頃に、広島鎮台の第5師団長野津道貫陸軍中将が大山巌陸軍大臣に送った電文です。内容は、予算が減額された中でも草鞋(文中は「草靴」と読めますが2画像目の片仮名書きの原文上で「ワラジ」と書かれています)は必要なので臨時費用の中で準備を始めている、というものです。大規模な軍事行動が開始されつつある中で、兵士が用いるための草鞋の準備が進められているのがわかります。

  • レファレンスコード: C06021813400
  • 件名: 第4師団より 特設部隊下士以下用草鞋調製の件
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これもまた、兵士に対する草鞋の支給に関する文書で、陸軍省から第4師団に対し、特設部隊(戦時にあたって臨時に編成される部隊のことです)の下士官以下のための草鞋と足袋全1,667足の準備を許可するという内容です。明治27年(1894年)12月20日付の文書です。下士官以下に、不時用(非常用)として草鞋と足袋を各1足ずつ携行させたいと記されているので、1,667足という数は恐らく部隊の下士官以下の兵士全員分にあたるものと思われます。第4師団はこの後に遼東半島に向かい、日本軍占領地の警備を担うことになります。

  • レファレンスコード: C06021702900
  • 件名: 野戦監督長官より 第2軍へ草鞋掛剌足袋5万足準備の件
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こちらは足袋の支給に関するものです。明治27年(1894年)12月1日付の文書で、陸軍省から野戦監督長官に対し、第2軍のための「草鞋掛刺足袋」50,000足の準備を許可するという内容です。この「草鞋掛刺足袋」とは、草鞋と接触する部分が痛むのを防ぐために布を重ねるなどして補強し、細かく刺し縫いを施した、草鞋履き専用の丈夫な足袋のことのようです。恐らくは、上で見たように草鞋が支給されると同時に、草鞋履きに適したこのような足袋も配布され、兵士たちは併せて用いていたのでしょう。

  • レファレンスコード: C05121576400
  • 件名: 秋田県より 雪草鞋献納者の件
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ここまで見てきたように、兵士たちは軍から支給された草鞋や足袋を身に着け戦場に赴いていたわけですが、しかし、冬場になると、特に冷え込みが強く雪の降り積もることもある清国東北部あたりの戦場では、やはり通常の草鞋ではじゅうぶんではなかったようです。この文書には、明治27年(1894年)9月に、秋田県知事から陸軍次官に対して、「雪草鞋」10,000足を60日間で製造して献納しようという申し出が県内から出ていることが記されています。「雪草鞋」とは、雪上用の草鞋のことのようで、今日も東北地方などに伝わる、爪先一帯を覆うスリッパ型の深沓(ふかぐつ)や、ブーツ型に編まれた雪靴(ゆきぐつ)と同じようなものと思われますが、詳細は不明です。しかしいずれにせよ、冬の到来に先立ち、雪深い地域の人々から雪用の草鞋が大量に提供され、これが戦場の兵士たちに送られるということがあったようです。

  • レファレンスコード: C06021797300
  • 件名: 野戦監督部より 毛布裏付鷹匠足袋貨物支廠ヘ準備の件
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  • レファレンスコード: C06021827900
  • 件名: 野戦監督長官部より 毛布裏付足袋宇品貨物支廠へ準備の件
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これらの文書もまた、冬場の防寒用の足袋についてのものです。レファレンスコード:C06021797300の文書は、第1軍が雪の中で移動することに備え、「毛布裏付鷹匠足袋」110,000足を宇品の貨物支廠で準備したいという野戦監督長官からの請求を、陸軍省が承認すると伝える内容で、明治27年(1894年)11月25日付になっています。「毛布裏付鷹匠足袋」とは、その名の通り、裏が毛布地になっている鷹匠足袋(直接地面を歩けるように底に刺しを施して補強した足袋のことです)のことのようで、通常の足袋に代わる冬場の防寒用として用意されたのでしょう。この1か月後の12月27日付となっているレファレンスコード:C06021827900の文書では、さらに100,000足の「毛布裏付鷹匠足袋」を追加して準備することが記されています。毛布裏付の足袋は布地が厚く古くなっても使用できるため、一層厚い毛布を用いるかそれがなければ2枚重ねにして作るようにとの注文も書かれています。宇品は日清戦争当時、大本営の置かれた広島の港(宇品港:その後拡大が進み現在は広島港と呼ばれています)として重要な役割を果たしており、多くの兵士や物資がここから戦地に運ばれました。これらの文書に記されている「毛布裏付鷹匠足袋」もまた、この後、寒冷地で戦う兵士たちのもとに送り出されていったのでしょう。