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岩倉使節団に関わった人々を、使節団参加者(途中参加者や参加を取りやめた者、現地訪問国で同行した者を含む)、留守政府要人、使節団と関わった外国人の3つのカテゴリーにまとめました。氏名にリンクのある人物については、資料検索結果もしくは「アジ歴地名・人名・出来事事典」に遷移することができます。また、これらの人物が所属していた組織についても、組織図と解説文でご覧いただけます。
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組織名読み解説
太政官だじょうかん明治初期の政府中枢機関。明治元年(1868)閏4月の政体書において、一切の権力は太政官に属すると定められ、行政事務を分掌する官(のち明治2年7月に省と改称)が設置された。また、明治4年(1871)7月の官制改革では、各省を統括する正院、立法審議機関である左院、各省の利害調整機関である右院が設置され、いわゆる三院制が布かれた。
正院せいいん太政官の最高意思決定機関。明治4年(1871)7月に設置。天皇親臨のもと、太政大臣・納言(のち左右大臣)が輔弼し、さらに参議が参与して庶政を奨督した。また、管下の部局として、正院内部における文書の起草・勘査・管理を掌る内史官、各省使・府県との文書接受を担当する外史官が置かれた。
神祇省じんぎしょう祭事祀典・教化政策を管掌した中央官庁。明治4年(1871)8月、神祇官を改称するかたちで設置された。祭政一致に基づき祭典・宣教を統監したが、実際には大嘗祭(明治4年11月)の準備と執行が最大の省務であった。明治5年(1872)3月、教部省が設置されたことに伴い、廃局。祭祀事務は式部寮へ、教化事務は教部省に引き継がれた。
式部寮しきぶりょう祭祀・式典を管轄した太政官の機関。明治4年(1871)8月、太政官正院に新設されたばかりの式部局を改称するかたちで設置。同時に廃局とされた雅楽局・舎人局の役割を引き継ぎ、宮中の礼典・祭祀・交際・雅楽などを掌った。明治5年(1872)3月に神祇省が廃止されると、その省務の一部を引き継ぎ、祭事祀典を専管する機関となった。
外務省がいむしょう外交政策と在外事務を所掌する中央官庁。明治2年(1869)7月の職員令により設置。その省務は外国交際と貿易監督とされたが、それを遂行する機構の確立は明治6年(1873)1月まで時間を要した。その間、迎賓施設である延遼館の設置(明治2年)、在外公館制度の導入と弁務使(後の公使)の派遣(明治3年)、洋・漢語学所の設置(明治4年)などが行われた。
大蔵省おおくらしょう財政事務を総括した中央官庁。明治2年(1869)7月職員令により、会計官の後身として設置。その省務は金穀出納・秩禄・造幣などとされた。設置当初より松平慶永・大隈重信が大蔵・民部両省の卿・大輔をそれぞれ兼任したことで、民部省を事実上合併し、内政全般に関わる権限を有した。その強大さは政府内外の批判を招き、いわゆる民蔵分離問題を引き起こした。明治4年(1871)7月の民部省廃止により、その省務を引き継ぎ、再び強大化した。
検査寮けんさりょう会計監督事務を主管する大蔵省の内局。明治4年(1871)8月設置。二等寮。金穀出納の当否を検査する事務を管掌。明治10年(1877)1月、検査局に改組された。
戸籍寮こせきりょう戸籍事務を主管する大蔵省の内局。明治4年(1871)8月、戸籍司を改組するかたちで設置。二等寮。同年4月の戸籍法制定に伴い、壬申戸籍の作成が命じられたが、その作成事務を総括したのが戸籍寮である。明治7年(1874)1月、内務省の設置に伴い、内務省の管轄となった。
租税寮そぜいりょう租税及び土地に関する事務を主管した大蔵省の内局。明治4年(1871)7月、租税司を改組するかたちで設置。一等寮。全国の租税賦課に加え、土地に関する事務を管掌しており、明治5年(1872)7月には地租改正局を設置・管轄した(明治8年3月廃止)。明治10年(1877)1月、租税局に改組されるかたちで廃局。
勧農寮かんのうりょう農業振興事務を主管した大蔵省の内局。三等寮。明治4年(1871)8月、民部省開墾局(のち勧農局、さらに勧業局と改称)の系譜を引く勧業寮が大蔵省内に設置されたが、直後に勧農寮と改称。開墾や牧畜を中心とする農業振興に当たった。明治5年(1872)10月に廃局。
兵部省ひょうぶしょう軍事と治安維持を担った中央官庁。明治2年(1869)7月の職員令により、軍務官を改組するかたちで設置。明治政府の直轄軍隊創設を進めた。当初は陸海軍の別や軍政・軍令の区分がなかったが、明治4年(1871)7月の改革により陸軍部・海軍部が設置され、さらに陸軍参謀局が設置された。明治5年(1872)2月に廃局となり、陸軍省・海軍省に改組された。
文部省もんぶしょう教育・文化行政を担った中央官庁。明治維新直後の教育行政は、昌平黌などの系譜を引く教育機関である大学校(のち大学と改称)が担ったが、明治4年(1871)7月、教育行政を分離する形で文部省が設置された。東京の大学南校・東校をはじめ、各地の旧藩学校を廃止するなど、画一的な教育制度の創設を指向した。
工部省こうぶしょう明治初年の殖産興業政策を担った中央官庁。西欧の技術・産業の移植を目的として、いわゆる開明派官僚がその必要性を唱え、明治3年(1870)閏10月に設置された。「工学開明」「百工褒勧」をスローガンに、民間工業の奨励と官営事業を管掌。特に官営事業の点では、鉄道建設と鉱山開発に興業費が集中するなど、この両部門が省内の中核的位置を担った。
製作寮せいさくりょう諸器械の製作事務を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月に設置。二等寮。明治5年(1872)10月に造船寮・製鉄寮、翌6年(1873)11月には勧工寮、7年(1874)1月には内務省土木寮の営繕事務を吸収した。明治10年(1877)1月、官制改革によって製作寮は工作局に改組された。
造船寮ぞうせんりょう船艦の製造・修理を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月に設置。二等寮。横須賀・長崎の両造船所を所轄した。設立当初から技師を仏・英に派遣するなど、西洋造船技術の習得を進めた。明治5年(1872)10月に廃局となり、管掌事務は製作寮へ引き継がれた。また、横須賀造船所は海軍省へ、長崎造船所は製作寮へ移管された。
鉱山寮こうざんりょう鉱山の管理・開発を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月、工部省鉱山司の系譜を引く部局として設置された。一等寮。全国各地の鉱山に支庁を置いて各鉱山の管理に当たらせるとともに、本寮官吏による巡検が定期的に実施された。明治10年(1877)1月の官制改革により、鉱山寮は鉱山局に改組され、各支庁は分局と改称された。
鉄道寮てつどうりょう鉄道事務を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月、工部省鉄道掛を発展させるかたちで設置された。一等寮。鉄道敷設事務に当たらせるため、横浜・大阪・神戸に出張所を設けた(大阪には後に東鉄道寮・西鉄道寮の二寮が設けられる)。明治5年(1872)ごろから鉄道敷設事業の民営化が企図され、翌6年(1873)1月に新設された鉄道会社への移譲が決定した。東京―横浜間の鉄道開業に伴い、明治7年(1874)2月、本寮を大阪に移転して畿内での鉄道事業を推進した。明治10年(1877)1月、官制改革によって鉄道寮は鉄道局に改組された。
灯台寮とうだいりょう灯台事務を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月、灯台掛を改称して設置。二等寮。明治維新直後の灯台事務は、外国官(のち外務省)や民部省が主管するなど、管轄官庁が定まらなかったが、明治3年(1870)閏10月の工部省設立によって同省の管轄となった。明治10年(1877)1月に灯台局に改称。明治18年(1885)12月の工部省廃止に伴い、事務は逓信省灯台局に継承された。
司法省しほうしょう司法行政を担当した中央官庁。明治4年(1871)7月、刑部省と弾正台の廃止に伴い、設置。その省務は執法・申律・折獄・断訟・捕亡と定められたが、大蔵省や東京府の聴訟事務を吸収する一方、捕亡・囚獄事務を地方官に移譲するなど、その職掌はたびたび変遷があった。岩倉使節団派遣に際しては、最大規模の省員を随行させ、司法卿江藤新平の理事官派遣も計画される(のち中止)など、洋行に積極的であった。
明法寮めいほうりょう明治4年(1871)9月に設置された司法省の内局。設置当初は司法官養成を担う機関とされ、ボアソナードらによってフランス法の教授が行われた。明治5年(1872)8月の司法職務制定によって、立法調査・新法議草・法令編纂などの機能が付与された。明治8年(1875)5月に廃局。
宮内省くないしょう皇室事務を司る中央官庁。明治2年(1869)7月の職員令により設置。当初は公家や女官による宿弊が目立ったため、公家排斥と士族採用を唱えて人事刷新が進められた。明治4年(1871)7月には、天皇の側近である侍従職を監督する侍従長が設置され、宮内卿徳大寺実則が兼任した。
開拓使かいたくし北海道の開発を担った中央官庁。明治2年(1869)7月に設置。長官は各省の卿と同等とされた。北海道は松前藩などによる分領支配が行われ、明治3年(1870)2月に樺太開拓使も設置されたが、明治5年(1872)9月に開拓使が北海道全域と樺太を管轄した。当初本庁は東京に置かれたが、明治3年閏10月に函館、明治4年(1871)5月に札幌へ移された。ただし、長官・次官は東京出張所にて使務を執り行い、本庁ではNo.3の判官が現地で事務を遂行する体制が続いた。
左院さいん太政官に設置された立法審議機関。明治4年(1871)7月、太政官職制により正院・右院とともに設置された。諸立法を審議決定し、正院に上達することが職掌とされた。また、同年8月に制度局や集議院を管下に吸収し、議事機関としての役割を強化した。
右院ういん太政官に設置された利害調整機関。明治4年(1871)7月、正院・左院とともに設置された。諸省の長官・次官で構成。諸省からの議案を審議するなど、行政利害の調整を図ることが役割とされた。
組織名読み解説
太政官だじょうかん明治初期の政府中枢機関。明治4年(1871)7月の官制改革によって、正院・左院・右院の三院制が布かれた。三院制下においても、岩倉使節団派遣に伴って右院の定例開催が廃止されたほか、明治6年(1873)5月の太政官潤飾に伴う正院の権限強化、明治8年(1875)4月の左右両院廃局(元老院・大審院の新設)、明治10年(1877)1月の正院廃止など、たび重なる官制改革が続いた。明治18年(1885)12月、内閣制への移行に伴い、太政官制は廃止された。
正院せいいん太政官の最高意思決定機関。明治4年(1871)7月に設置。各省を管轄する機関であったが、設置当所は大蔵省などの発言力が強く、明治6年(1873)の予算紛議を通じてリーダシップの欠如が露見した。そのため、同年には参議増員・太政官潤飾など権限拡張が模索され、各省ヘの統制力を強化した。明治10年(1877)1月の官制改革により、廃局。
教部省きょうぶしょう明治初期の宗教事務を統括した中央官庁。明治5年(1872)3月、神祇省の廃止に伴い、新設された。神祇省の役割のうち、神道と仏教の合併布教を中心とする宣教政策を担ったほか、社寺関連の事務を掌った。ただし、教部省の政策には西本願寺派などからの反発が強く、明治8年(1875)5月に合併布教を停止することとなった。明治10年(1877)1月、廃局。管掌事務は内務省社寺局に引き継がれた。
式部寮しきぶりょう祭祀・式典を管轄した太政官正院の機関。明治5年(1872)3月に神祇省が廃止されると、その省務の一部を引き継ぎ、祭事祀典を専管する機関となった。明治8年(1875)3月の式部寮職制章程によると、その役割は礼典・拝謁接伴、宮中諸官社の祭祀、位記・勲等事務などに置かれた。一時宮内省に移管され、後に再び正院管轄に復するも、明治17年(1884)10月に廃局。その職掌は宮内省に新設された式部職に引き継がれた。
外務省がいむしょう外交政策と在外事務を所掌する中央官庁。明治2年(1869)7月の発足以来、機構整備が繰り返し模索され、明治6年(1873)1月に外務省事務章程が定められた。それによると、長官である外務卿、次官級の外務大輔・外務少輔のもとに、一般事務を掌る弁事局、欧州事務を管掌する外事左局、米国及びアジア各国事務を管掌する外事右局、などが設けられた。明治18年(1885)12月の内閣制度においては内閣を構成する官庁の一つとなり、現在まで存続している。
大蔵省おおくらしょう財政事務を総括した中央官庁。明治4年(1871)7月の民部省廃止により、その省務を引き継ぐなど、その権限の強大化がたびたび問題となった。明治6年(1873)5月の太政官潤飾、同年11月の内務省設置を経て、大蔵省は財政事務を専管する機関として規定された。明治18年(1885)12月の内閣制度においては内閣を構成する官庁の一つとして位置づけられ、平成13年(2001)1月の財務省設置まで存続した。
検査寮けんさりょう会計監督事務を主管する大蔵省の内局。明治4年(1871)8月設置。二等寮。金穀出納の当否を検査する事務を管掌。明治10年(1877)1月、検査局に改組された。
戸籍寮こせきりょう戸籍事務を主管する大蔵省の内局。明治4年(1871)8月、戸籍司を改組するかたちで設置。二等寮。同年4月の戸籍法制定に伴い、壬申戸籍の作成が命じられたが、その作成事務を総括したのが戸籍寮である。明治7年(1874)1月、内務省の設置に伴い、内務省の管轄となった。
租税寮そぜいりょう租税及び土地に関する事務を主管した大蔵省の内局。明治4年(1871)7月、租税司を改組するかたちで設置。一等寮。全国の租税賦課に加え、土地に関する事務を管掌しており、明治5年(1872)7月には地租改正局を設置・管轄した(明治8年3月廃止)。明治10年(1877)1月、租税局に改組されるかたちで廃局。
陸軍省りくぐんしょう陸軍の軍事行政を管掌した中央官庁。明治5年(1872)2月の兵部省廃止に伴い、海軍省とともに設置。当初は陸軍卿が軍政・軍令を一元的に掌握したが、明治7年(1874)2月に外局として参謀局が新設、さらに明治11年(1878)12月には参謀本部となり、軍令部門が独立した。また、明治20年(1887)5月に監軍部(後の教育総監部)が設置され、教育部門の独立が図られた。明治18年(1885)12月の内閣制度にて内閣を構成、昭和20年(1945)11月廃止。
海軍省かいぐんしょう海軍の軍事行政を管掌した中央官庁。明治5年(1872)2月の兵部省廃止に伴い、陸軍省とともに設置。兵部省海軍部の機構を継承、また海軍兵学寮や横須賀造船所などの諸機関を所管した。陸軍省と同様、当初は軍政・軍令が未分化であったが、明治26年(1893)5月に海軍軍令部が軍令専管機関として独立した。明治18年(1885)12月の内閣制度にて内閣を構成、昭和20年(1945)11月廃止。
文部省もんぶしょう教育・文化行政を担った中央官庁。明治5年(1872)8月の学制公布による小学校制度の樹立、各省が設置していた高等教育機関の文部省への移管など、教育制度の画一化・集権化を推進した。一方で、早くから御雇外国人の招聘を積極的に行うなど、開化路線を推し進めた。明治18年(1885)12月の内閣制度においては内閣を構成する官庁の一つとして位置づけられ、平成13年(2001)1月の文部科学省設置まで存続した。
工部省こうぶしょう明治初年の殖産興業政策を担った中央官庁。明治6年(1873)11月に内務省が新設されると、殖産興業の推進主体は次第に内務省へと移っていき、さらに官営事業の赤字累積も重なって、工部省は規模の縮小・整理が図られることとなった。明治18年(1885)12月、内閣制度に伴う官制改正により廃局。省務は明治14年(1881)4月に新設された農商務省などに引き継がれた。
製作寮せいさくりょう諸器械の製作事務を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月に設置。二等寮。明治5年(1872)10月に造船寮・製鉄寮、翌6年(1873)11月には勧工寮、7年(1874)1月には内務省土木寮の営繕事務を吸収した。明治10年(1877)1月、官制改革によって製作寮は工作局に改組された。
鉱山寮こうざんりょう鉱山の管理・開発を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月、工部省鉱山司の系譜を引く部局として設置された。一等寮。全国各地の鉱山に支庁を置いて各鉱山の管理に当たらせるとともに、本寮官吏による巡検が定期的に実施された。明治10年(1877)1月の官制改革により、鉱山寮は鉱山局に改組され、各支庁は分局と改称された。
鉄道寮てつどうりょう鉄道事務を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月、工部省鉄道掛を発展させるかたちで設置された。一等寮。鉄道敷設事務に当たらせるため、横浜・大阪・神戸に出張所を設けた(大阪には後に東鉄道寮・西鉄道寮の二寮が設けられる)。明治5年(1872)ごろから鉄道敷設事業の民営化が企図され、翌6年(1873)1月に新設された鉄道会社への移譲が決定した。東京―横浜間の鉄道開業に伴い、明治7年(1874)2月、本寮を大阪に移転して畿内での鉄道事業を推進した。明治10年(1877)1月、官制改革によって鉄道寮は鉄道局に改組された。
灯台寮とうだいりょう灯台事務を主管した工部省の内局。明治4年(1871)8月、灯台掛を改称して設置。二等寮。明治維新直後の灯台事務は、外国官(のち外務省)や民部省が主管するなど、管轄官庁が定まらなかったが、明治3年(1870)閏10月の工部省設立によって同省の管轄となった。明治10年(1877)1月に灯台局に改称。明治18年(1885)12月の工部省廃止に伴い、事務は逓信省灯台局に継承された。
司法省しほうしょう司法行政を担当した中央官庁。明治4年(1871)7月の刑部省・民部省廃止に伴って、両省よりそれぞれ刑事・民事裁判権を引き継いだ。その後、長官である司法卿が司法省裁判所長を兼任する時期もあったが、明治8年(1875)4月の大審院設置に伴い、裁判には関与しない司法行政専管機関となった。明治18年(1885)12月の内閣制度においては内閣の構成官庁として位置づけられた。昭和22年(1947)2月、法務庁に改組されるかたちで廃局。
明法寮めいほうりょう明治4年(1871)9月に設置された司法省の内局。設置当初は司法官養成を担う機関とされ、ボアソナードらによってフランス法の教授が行われた。明治5年(1872)8月の司法職務制定によって、立法調査・新法議草・法令編纂などの機能が付与された。明治8年(1875)5月に廃局。
警保寮けいほりょう警察事務を主管した司法省の内局。明治5年(1872)8月設置。全国の警察行政を統括した。明治7年(1874)1月、警保寮は内務省に移管され、同省の中心的業務となる警察行政を担った。
宮内省くないしょう皇室事務を司る中央官庁。明治6年(1873)5月の皇居火災で宮内省も消失、明治21年(1888)12月まで赤坂離宮の仮皇居にて事務を行った。明治10年代には内務省から陵墓事務を、外務省から外賓接遇を引き継ぎ、その役割を増していった。明治18年(1885)12月の内閣制度に伴い、宮内省は内閣に属さない官庁となった。昭和22年(1947)5月に宮内府と改称、さらに昭和24年(1949)6月に総理府外局の宮内庁へ改組された。
内務省ないむしょう内政を掌った中央官庁。明治6年(1873)11月に設置。勧業・警察・地方行政を中心に国内行政を総括。明治18年(1885)12月の内閣制度においては内閣を構成する官庁の一つとして位置づけられ、管轄・権限の拡充が図られ、近代日本における統治機構の中枢的役割を担った。昭和22年(1947)12月に廃止。
開拓使かいたくし北海道の開発を担った中央官庁。明治5年(1872)9月、北海道全域を管轄としたことにより、新たに札幌本庁と各支庁が設置され、分治体制が確立された。明治8年(1875)5月に樺太千島交換条約が締結されると、樺太はロシア領となり、千島列島が開拓使の管轄に編入された。明治15年(1882)2月、廃局。官営事業は工部省や農商務省に、地方行政は新設された札幌県などに引き継がれた。
左院さいん太政官に設置された立法審議機関。明治5年(1872)5月、「下議院」設置の議案を正院に提出し、その規則取調を進めた。また、明治6年(1873)6月の左院事務章程改正では、左院の職掌として「国憲民法」の編纂が盛り込まれたが、どちらも現実化には至らなかった。明治8年(1875)4月、元老院が設置されたことに伴って廃局。
右院ういん太政官に設置された利害調整機関。明治4年(1871)9月の右院職制では隔日開催と定められていたが、明治6年(1873)5月の太政官職制では勅命による臨時開催と変更された。明治8年(1875)4月、廃局。
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