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地域 | 満洲国 |
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都市名 | 新京 |
解説 | 弘報処の前身は地方自治の指導と建国精神の宣伝を目的とした国務院資政局内の弘法処であった。リットン調査団対策や満洲国承認のための対日宣伝を行ったが、資政局弘法処は1932(昭和7)年7月に廃止になった。広報は必要だとみなされており、対外広報のため外交部宣化司が設けられ、続いて1933(昭和8)年4月に総務庁情報処が新設された。情報処は文書による対内宣伝工作や、治安維持会内の宣撫小委員会で幹事役を果たして討伐に伴う宣撫工作を推進した。1937(昭和12)年7月、総務庁強化の改革により情報処は弘報処として改組され、それまでの総務科、情報科に監理科を加えた三科体制となった。「建国」以来、満洲国通信社や満洲電信電話株式会社、満洲映画協会など通信や放送の実施機関が整備されていったため、1938(昭和13)年から1939(昭和14)年にかけて宣伝の実施自体から情報宣伝政策の樹立や諸機関の指導監査、政府のスポークマンとしての役割に移り変わっていった。1941(昭和16)年1月には弘報処官制の改正により、治安部の映画、新聞、出版に関する検閲や、交通部の放送、ニュース通信に関する検閲、民生部の芸術に関する文化行政、外務局の対外宣伝といった権限が移譲されて業務に加わった。1941(昭和16)年末に向けて日本の対英米戦が迫ったあたりから国内広報を強化し、開戦後は戦意高揚を図った。1943(昭和18)年4月には放送総局が設置された。 |
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参考資料 | 岡部牧夫『満洲国』(講談社学術文庫、2007年)。満洲国史編纂刊行会編『満洲国史 各論』(満蒙同胞援護会、1971年)、7-9、59-73頁。 |