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地域 | 朝鮮 |
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解説 | 全羅南道小鹿島に建てられたハンセン病者収容施設である。朝鮮におけるハンセン病者救護は欧米の宣教師によって始められていたが、1916年2月、明治天皇下賜金を基にして、全羅南道立小鹿島慈恵医院が開院した。当初は100名を定員としたが、1920年代に2度の医院拡張を経て定員数も増加した。1931年に日本で癩予防令および癩予防協会ができたことを受けて、1932年には朝鮮癩予防協会が創立、1935年には朝鮮癩予防令が発布された。同時に、朝鮮癩予防協会は小鹿島の土地買収を進め、1933年に第1次拡張工事が始まると、第2次、第3次と拡張した。これに伴い、1934年10月には小鹿島慈恵医院は朝鮮総督府立の施設に昇格(小鹿島更生園)、医長、医官、事務官、医官補、書記、薬剤手で組織され、指揮監督権は朝鮮総督にあった。癩療養所の昇格と拡張によって、全土的にハンセン病患者の療養所移送が本格化したが、朝鮮癩予防令により、患者の絶対隔離が推進されたため、療養所には学校、保育所、郵便局、公会堂、工場、果樹園、牧場のほか、刑務所、神社まで完備された。 |
上位の階層 | |
参考資料 | 癩療養所の官制などについてはRef:A03021953800「御署名原本・昭和九年・勅令第二六〇号・朝鮮総督府癩療養所官制」、A01200670300「朝鮮総督府癩療養所官制ヲ定ム」を参照。「朝鮮総督府令第一〇六号中改正」朝鮮総督府令第7号、1916年2月24日(『朝鮮総督府官報』1916年2月24日)。滝尾英二『朝鮮ハンセン病史 日本植民地化の小鹿島』(未来社、2001年)。金貞蘭「植民地期における釜山の『癩病』に対する政策」(『朝鮮史研究会論文集』第48集、2010年10月、緑蔭書房)。 |
歴代長官 部局長等 |
蟻川亨/花井善吉/矢澤俊一郎/周防正季・小鹿島更生園長(1935年1月1日現在)/牛島友記・小鹿島更生園長事務取扱(1942年7月1日現在)/西亀三圭(1943年7月1日現在) |