トップページ > テーマ別検索「公文書に見る終戦」 > コラムNo.2【 戦時賠償艦 ~ふたたび外洋に向かった「軍艦」~ 】
島国である日本にとって、海軍の増強は明治以降重要な課題となっていました。
アジア・太平洋戦争の開戦当初、日本は世界でも有数の艦艇保有数をほこりましたが、終戦時まで残存できたものは決して多くはありません。
そしてその一部は、賠償の一環として連合国に譲渡されました。
ここでは、賠償艦の中でも特に著名な五隻の艦艇、駆逐艦雪風、駆逐艦響、重巡洋艦妙高、伊号第400潜水艦そして戦艦長門について、それぞれ中華民国、ソビエト連邦、イギリス連邦、アメリカ合衆国に譲渡される前後に焦点をあてて紹介します。
雪風(ゆきかぜ)は、太平洋戦争時の日本海軍の駆逐艦の中で無事終戦を迎えた数少ない駆逐艦の一隻でした。
スラバヤ沖海戦をはじめ、ミッドウェー海戦、第三次ソロモン海戦、レイテ沖海戦、そして坊ノ岬沖海戦等、主たる海戦の多くに参加しました。
終戦後、砲塔等を撤去しかわりに仮設住居等を増設し、復員輸送艦として運用される。1946年12月28日までに15回の復員輸送任務を果たし、13,000人以上を本土に送り届けました。
写真は1947年2月または3月時点のものです。
この年の7月6日、戦時賠償艦として中華民国に引き渡されることとなりました。
その後、丹陽と改称のうえ再武装化され、第一線で活動。
老朽化により1965年12月16日、退役。
1966年11月16日、除籍。1971年12月31日、解体完了。
ちなみに、同艦の舵輪のみ、記念として日本に返還され、現在は広島県江田島市に所在する海上自衛隊第一術科学校内にある教育参考館において展示されています。
アジア歴史資料センター公開資料の中にも、終戦後の雪風について数点の史料が確認できます。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011234100、昭和21・10以降 特別保管艦艇関係綴 2/2 横地復総務部 (①-引渡目録-226)(防衛省防衛研究所)」からは、復員輸送任務を完了したあと、1947年3月14日から19日にかけて回航の準備として機構調査や作動試験を行ったことが読み取れる。
響(ひびき)は、日本海軍の駆逐艦です。
バタビヤ沖海戦や第1および第2次キスカ島撤退作戦など大小さまざまな作戦に参加し複数回損傷しながらも航海を続けました。
坊ノ岬沖海戦に加わる予定でしたが、周防灘姫島灯台近海で機雷に接触し、呉に帰投。その後新潟港で防空砲台となり、終戦を迎えました。
戦後は舞鶴で武装解除のうえ復員輸送艦として活躍。
1945年10月からほぼ一年間にわたり14回輸送を実施しました。
写真は1947年5月29日、復員輸送任務を終えた響を横須賀で撮影したもの。
甲板上には仮設住居のようなものが多数確認できます。
7月5日、ソビエト連邦に賠償艦として引き渡されました。
7日、同国太平洋艦隊第5艦隊に編入。
22日、ヴェールヌイ(Верный)と改称のうえ再武装化。
1948年7月5日、兵装を撤去して練習艦となり、デカブリスト(Декабрис)に改称。
1953年2月20日、老朽化のため除籍。
その後標的艦として処分され、ウラジオストク沖のカラムジナ島沿岸に沈没。
アジア歴史資料センターでは、上掲写真のおよそ一か月前(4月25日)の響の様子をうかがい知ることができる史料を公開しています。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011264600、昭和22年6月 艦艇引渡綴 呉地方復員局 (①-引渡目録-243)(防衛省防衛研究所)」によれば、この時点で響は特別保管艦として第一回引渡の第三組に、駆逐艦椎、同梅などとともに呉で回航の準備を受けている。
妙高(みょうこう)は、日本海軍の重巡洋艦です。
スラバヤ沖海戦、珊瑚海海戦、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦など多数の大規模作戦に参加しました。
レイテ沖海戦での損傷を修理するため曳航されたシンガポールで終戦を迎えました。
この時、電力の供給が可能であったことから、終戦直後は人員の宿泊や他艦の修理、通信などを担当していました。
写真は、1945年9月乃至10月にシンガポール(セレター軍港)で撮影されたものです。
妙高独特の迷彩であるセレター迷彩の名は、このセレター軍港からとられました。
こののち賠償艦としてイギリス連邦に引き渡され、1946年7月8日、マラッカ海峡にて海没処分。
8月10日除籍。
『写真日本海軍艦艇史』上巻p.218 (1945.9~10)
妙高は復員輸送任務に従事せず、また他の賠償艦より比較的早期に処分されたため、終戦後の活動について記された史料は多くありません。
アジア歴史資料センターではその内「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14061157400、第2南遣 レンパン島資料(防衛省防衛研究所)」として1946年7月1日時点の同艦の員数に関する史料を公開しています。
この時点で、総員830名のうち653名が内地への帰還を果たしました。
伊号第400潜水艦(いごうだいよんひゃくせんすいかん)は、日本海軍がアメリカ本土攻撃を目的として建造した当時最大級の潜水艦伊400型の一番艦です。
1944年12月30日に竣工し、その後内地で訓練を重ね、1945年7月23日ウルシー攻撃のため大湊を出港。
同南方海面で終戦を迎えました。
8月29日、日本へ帰投中に三陸沖でアメリカ海軍駆逐艦ブルーに捕獲される。
30日、横須賀港に帰港。
写真は8月31日から9月1日にかけてのもの。
横須賀港にて。
画面左端はアメリカ海軍潜水艦プロテウスの一部。
画面下は木造特型運貨船。
伊号第400潜水艦は手前の艦上作業中のもの。
アメリカ海軍監視下で糧食を搬出しています。
ちなみにその奥は手前から伊号第401潜水艦、伊号第14潜水艦。
9月15日、除籍。1946年1月、賠償艦として佐世保からアメリカに向けて出港。
技術調査されたのち、6月4日、ハワイ近海で標的艦として処分されました。
ちなみに、2013年8月、ハワイ大学の調査で伊号第400潜水艦が発見され、2015年5月6日にはNHKで同潜水艦についての番組が放映されました。
終戦直前に建造された伊400型潜水艦に関する史料は少なく、アジア歴史資料センターにも数点が散見されるのみです。
戦後に作成された史料はさらに限定されており、1946年10月に作成された引渡目録によって同型艦の伊401潜水艦、伊402潜水艦らとともに戦時の所属が呉鎮守府であったことをかろうじてうかがい知ることができる程度です。
なお2015年8月7日に五島沖で発見され各局のニュースでとりあげられた潜水艦は、伊402潜水艦と推測されています。
同艦については、1945年10月5日時点の艤装等の詳細を確認することができます。
長門(ながと)は、日本海軍の戦艦です。
戦前より国内外に広く認知されており、同海軍を代表する軍艦でした。
マリアナ沖海戦、捷一号作戦、レイテ沖海戦などに参加。坊ノ岬沖海戦後は、燃料枯渇のため他の戦艦・空母らとともに予備艦となりました。
終戦後、8月30日に中破の状態のままアメリカ合衆国に接収される。
写真は11月12日、横須賀で撮影されたもの。
その後調査され武装解除。
核兵器実験であるクロスロード作戦に参加するためビキニ環礁へ回航。
1946年7月1日、同作戦の第一実験、25日の第二実験に標的艦として参加。
28日深夜から29日未明にかけて沈没。
今もビキニ環礁の海底にその姿をとどめています。
当時から著名な軍艦であった長門については、関連する史料が国内外に多くのこされています。
アジア歴史資料センターでは、長門の最後の戦闘詳報(8月10日海軍功績調査部提出)を公開しています。
1945年6月1日以降、特殊警備艦として艤装を改めた長門の、日本海軍籍軍艦としての最後の動向をうかがい知ることができます。