トップページ > テーマ別検索「公文書に見る終戦」 > コラムNo.1【 復員船 】
復員船(特別輸送船)は、終戦時に海外に取り残された軍人および一般人の日本への引き揚げを担った艦船です。
戦時中の壊滅的な被害によって船舶不足にあった日本にとって、アジア大陸各地や南方の島々などに取り残された600万人以上の人員を帰還させるのは一大事業でした。
ピーク時の復員船は、旧海軍艦艇172隻、日本船舶55隻、アメリカ貸与船舶192隻にのぼります。
このうち、旧海軍艦艇は、航空母艦の鳳翔(基準排水量、7,470トン)、葛城(17,150トン)、巡洋艦の鹿島(5,800トン)、北上(5,100トン)、八雲(9,010トン)、潜水母艦の長鯨(5,160トン)などの比較的大きな船から、駆逐艦の波風(1,215トン)、海防艦の国後(860トン)など小さな船まで様々でした。
隻数では、駆逐艦28隻、海防艦61隻、輸送艦10隻という割合でした。また、氷川丸(総トン数、11,622トン)、高砂丸(総トン数、9,347トン)、宗谷丸(総トン数、3,800トン)などの徴用船も引き続き復員輸送に用いられました。
日本船舶(船舶法に基づき日本国の国籍を有する船舶)は、興安丸(総トン数、7,079トン)など船舶運営会所属の商船です。
アメリカ貸与船舶は、引揚輸送のために特別に貸与されたもので、戦時標準型輸送船(リバティ船)、戦車揚陸艦(LST)が、それぞれ約100隻です。
旧海軍艦艇の多くは、人員輸送には適していないので、収容人数を増やすために、砲の跡などに仮居住区を設け、トイレや厨房など増設しました。
空母、巡洋艦および大型駆逐艦は、マーシャル諸島やフィリピン、濠北など南方からの復員を担当しました。
中国本土や台湾からの復員は、中型駆逐艦、海防艦などが担っていました。
朝鮮半島からの復員には、より小さい船も使用されました。
画像5 復員船に関する公文書
件名:標題:其1(5)(6画像目)
アジ歴資料には、復員船に関する公文書も残されています。
「其1(5)」(レファレンスコード:C14020253200)(※画像5)の資料には、1945年10月7日~12月15日に、浦賀港に到着した復員船の情報が含まれています。
資料からは、例えば、11月29日(木)9:00に、有馬山丸が、マニラから出発する第2回の復員船として、陸軍軍人329名、海軍軍人102名、民間人71名の合計502名と、3名の遺骨を乗せて、浦賀に到着したことがわかります。
有馬山丸(総トン数、8,696トン)は、三井物産が1937年に建造したニューヨーク航路用の貨物船で、終戦時に残存した数少ない外国航路仕様の大型商船です。
資料からは、1945年10月7日~12月15日の約70日間に、累計で77隻が浦賀に到着し、累計の復員人数は74,921名だったことがわかります。
これは、平均するとおおよそ、毎日1隻の復員船が1000名の人員を輸送して到着するというペースでした。
復員船の出発先は、トラック、ダバオ、レイテ、父島などで、自活困難とされた南方の島々が多くありました。
現在、神奈川県横浜市の山下公園前に係留されている大型旅客船の氷川丸も、戦後、復員船として使用されました。
氷川丸は、1930年に日本郵船のシアトル航路用の貨客船として建造されました。
太平洋戦争前には、秩父宮夫妻、チャーリー・チャップリンなどを含む約1万名が乗船した豪華貨客船でした。
開戦直前に徴用された氷川丸は、海軍特設病院船として改装され、戦時中は南方の戦地に医薬品を運び、患者を収容、治療して本土に送還する任務に従事していたが、終戦後は復員船として南方の島々に取り残された兵員の帰還に携わることとなりました。
京都府の舞鶴港で終戦を迎えた氷川丸は、復員船として、1945年9月15日、マーシャル諸島ミレ島に向けて出港しました。
戦時中、ミレ島は、アメリカ軍が上陸しなかったため玉砕することを免れましたが、長期間孤立して補給を絶たれたため、食糧不足に陥り、終戦後も飢餓状態にありました。
海軍では各地の状況を調査し、最も事態が深刻なミレ島とメレヨン島に病院船を送ることを決め、ミレ島には氷川丸を、メレヨン島には高砂丸を配船しました。
9月28日、珊瑚礁に囲まれた小さな島、ミレ島に到着した氷川丸は、餓死寸前の傷病兵2000余名を収容し、10月7日、浦賀港に帰還しましたが、これが浦賀に寄港した最初の復員船となりました。
その後も、氷川丸は1947年1月まで、復員および引揚業務に従事し、ウェーク、ラバウル、マニラ、上海などから、病気や飢餓に苦しむ軍人および民間人2万8,000名を輸送しました。