『写真週報』には、当時の庶民生活に関わる様々な写真が掲載されています。現代に生きる私たちは、これらの写真から戦中期の世相に関する多くの情報を得ることができますが、『写真週報』が政府の広報宣伝政策の一環として発行されていたという事情をふまえた場合、これらの写真から得られる情報については、他の資料ともつき合わせながら検討することが望ましいのではないでしょうか。
そこでこの項目では、『写真週報』に掲載された庶民生活に関わる幾つかの写真を取り上げ、それに関連する文書資料を紹介すると共に、昭和17年(1942年)12月以降の事柄に関しては、当時の社会の状況に関して詳細な記録を残した評論家清沢洌(きよさわきよし)の日記(『暗黒日記』)の記述も併せて紹介します。
ここでは検討のための材料として、さしあたり上記のように関連する文書資料、清沢洌の日記の記述を紹介いたしますが、さらに本センターの検索システムを使って閲覧できるその他の公文書、或いはそれ以外の資料などの情報ともつきあわせてご検討いただければ幸いです。
なおここで日記の記述を紹介する清沢洌は、明治23年(1890年)長野県に生まれ、明治39年(1906年)渡米し大学を卒業し邦字紙で活躍した後、大正7年(1918年)に帰国、以後ジャーナリスト・評論家として活動を行なった人物です。清沢は、戦時下で当局の取り締まりが厳しくなり言論活動が困難になる中、外交史の研究に力を注ぎつつ、昭和17年(1942年)12月9日から昭和20年(1945年)5月21日に肺炎で急逝する直前の同年5月5日まで克明な日記を残しました。その没後『暗黒日記』と題され出版されたこの日記には、同時代の日本社会の状況が詳細に記されています。
またアジア歴史資料センターが提供している文書資料の中には、次に掲げるような清沢洌の昭和13年(1938年)7月の講演要旨も含まれています。
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