『写真週報』の表紙の裏や裏表紙には、さまざまな広告が掲載されています。ここではその中の幾つかの公共機関の広告を取り上げ、関連する文書資料と付き合わせながらそこからうかがえる当時の世相の一端を紹介します。なおここで紹介した広告のほかにも、『写真週報』には現在のわれわれにもなじみのある様々な商品の広告が、当時の世相を反映する形で掲載されています。






   

   

 明治27年(1894年)、フランスのクーベルタンが古代オリンピックの復興を提唱し、国際オリンピック委員会(IOC)が結成されると、明治29年(1896年)には近代オリンピックの第1回大会がアテネで開催されました。日本は明治45年(1912年)にストックホルムで行なわれた第5回大会から参加しました(冬季オリンピックには昭和3年(1928年)サンモリッツで行なわれた第2回から参加しました)。昭和5年(1930年)から日本は東京市が中心となって、オリンピック招致活動を開始します。オリンピックの発展と拡大とともに、オリンピックの開催都市は国際的に一流都市であることを証明するようになっていたからです。そして、昭和11年(1936年)の第11回ベルリン大会において、第12回大会は東京(冬季大会は札幌が候補)で昭和15年(1940年)9月21日から10月6日にかけて行なわれることが決定されました。しかし、日中戦争の勃発による情勢の変化により国内外からの反対が強く、日本政府は大会の開催中止を決定せざるを得なくなりました。ここでは、こうした東京オリンピックの招致から中止までの簡単な経緯を紹介します。






   

   

 『写真週報』には、当時の庶民生活に関わる様々な写真が掲載されています。現代に生きる私たちは、これらの写真から戦中期の世相に関する多くの情報を得ることができますが、『写真週報』が政府の広報宣伝政策の一環として発行されていたという事情をふまえた場合、これらの写真から得られる情報については、他の資料ともつき合わせながら検討することが望ましいのではないでしょうか。
 そこでこの項目では、『写真週報』に掲載された庶民生活に関わる幾つかの写真を取り上げ、それに関連する文書資料を紹介すると共に、昭和17年(1942年)12月以降の事柄に関しては、当時の社会の状況に関して詳細な記録を残した評論家清沢洌(きよさわきよし)の日記(『暗黒日記』)の記述も併せて紹介します。
 ここでは検討のための材料として、さしあたり上記のように関連する文書資料、清沢洌の日記の記述を紹介いたしますが、さらに本センターの検索システムを使って閲覧できるその他の公文書、或いはそれ以外の資料などの情報ともつきあわせてご検討いただければ幸いです。

 なおここで日記の記述を紹介する清沢洌は、明治23年(1890年)長野県に生まれ、明治39年(1906年)渡米し大学を卒業し邦字紙で活躍した後、大正7年(1918年)に帰国、以後ジャーナリスト・評論家として活動を行なった人物です。清沢は、戦時下で当局の取り締まりが厳しくなり言論活動が困難になる中、外交史の研究に力を注ぎつつ、昭和17年(1942年)12月9日から昭和20年(1945年)5月21日に肺炎で急逝する直前の同年5月5日まで克明な日記を残しました。その没後『暗黒日記』と題され出版されたこの日記には、同時代の日本社会の状況が詳細に記されています。
 またアジア歴史資料センターが提供している文書資料の中には、次に掲げるような清沢洌の昭和13年(1938年)7月の講演要旨も含まれています。

 

 



   
   

 『写真週報』には数多くの写真が掲載されています。そこには被写体として当時の代表的な政治家など多くの著名人が写っています。また写真の撮影者の中には、後に写真家・ジャーナリストとして名を成す人々も含まれています。ここではそうした『写真週報』に登場する著名人とその関連資料を紹介します。






   
   

 『写真週報』は、その出版形態・紙面構成からみて明らかに雑誌メディアといえます。ここではそうした『写真週報』の雑誌メディアとしての特質に関わると考えられる表紙や特徴的な記事に着目し、その幾つかを紹介します。





   
 

Japan Center for Asian Historical Records