■資料解説
第2次閉塞作戦に再び参加が決まった海軍少佐広瀬武夫は突進の6日前、3月21日に家族へ次のような遺書を残していました(『広瀬武夫全集』下巻、384頁)。
「再び旅順口閉塞の挙あり。武夫は茲に福井丸を指揮して、武臣蹇々の微を到さんと欲す。所謂一再にして已まず、三四五六七回人間に生れて、国恩に酬いんとするの本意に叶ひ、踴躍の至に不堪候。今回も亦天佑を確信し、一層の成功を期し申候。
七生報国 七たび生まれて国に報ぜん
一死心堅 一死 心堅し
再期成功 再び成功を期し
含笑上船 笑みを含みて船に上る
時下、母上様、叔父上様始メ、各位ノ御自愛ヲ望ミ、一家親籍ノ倍々繁栄ヲ祈リ居申候也。再拝 武夫」
ここにも、「崇高な義務心に満ち満ちた玲瓏玉のごとき快男児」(広瀬と親交があった帝国大学の政治学者小野塚喜平次博士の寸評、『広瀬武夫全集』下巻、489頁)といった「軍神広瀬」を彷彿させるイメージがよく表われています。
広瀬武夫の出棺は手厚く行われました(戦時日誌第2艦隊(3)の50画像目と同じく(4)の1画像目)。
こうした広瀬にまつわる「英雄伝」は、戦意高揚の手段として新聞報道によって喧伝されました。かくして「軍神広瀬」という神話は、国民の熱狂的な愛国主義に支えられながら広く受け入れられていくことになったのです(千葉功「日露戦争の『神話』日露戦争とその後の日本社会」小風秀雄編『アジアの帝国国家』吉川弘文館、2004年)。
ところで、イギリスの軍事史家マイケル・ハワードは、成熟した民主主義体制でさえも「愛国心や宗教的感情を鼓舞するため、もしくは王朝や政治体制への支持を引き起こす」事を目的とした「神話の形成(myth-making)」を行ってきたと述べ、それは「選別的英雄史観(selective and heroic view of the past)」であると批判しています(Michael Howard, "The Use and Abuse of Military History", 1962)。広瀬に関するエピソードも、そうした視点から見ると興味深いかもしれません。
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