日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)2月9日  仁川沖海戦

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期間
明治37年(1904年)2月9日
場所 仁川沖
概要 明治37年(1904年)2月9日の正午過ぎ、仁川沖において日本とロシアの軍艦が戦闘を交えましたが、日本艦隊の圧勝に終わりました。
 
 
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戦闘チャート

仁川沖海戦
明治37年(1904年)
2月6日 連合艦隊が佐世保港を出航。陸軍の先遣部隊を乗せた輸送船団を護衛する第2艦隊第4戦隊は、主力と分かれ仁川に向かう。(関連資料1
2月8日
16:40頃
仁川港に入港しようとした第4戦隊がロシア艦「コレーツ」と遭遇。小競り合いの後、「コレーツ」は仁川港に引き返す。(関連資料2
2月8日
第4戦隊が仁川港に入港し、陸軍部隊の揚陸作業を開始。(関連資料3
2月9日
08:00
仁川港に停泊していたロシア艦「ワリヤーグ」「コレーツ」に対し、正午までに港外に出るよう要求。(関連資料4
2月9日
12:10
ロシア艦2隻が仁川港を出港。(関連資料5
2月9日
12:20
港外に出たロシア艦に日本艦隊が砲撃を開始する。(関連資料6
2月9日 損害を受けたロシア艦が仁川港に引き返す。(関連資料7
2月9日
夕方
仁川港で「コレーツ」が爆沈。(関連資料9
2月9日
20:00頃
仁川港で「ワリヤーグ」が自沈。(関連資料8
 
【 参考文献 】 「極秘 明治37.8年海戦史」
 
 
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解説

仁川沖海戦
連合艦隊、砲火を開く

 2月6日、日本海軍連合艦隊は長崎佐世保港を出発し、旅順に向かいました。 瓜生外吉司令官の率いる第二艦隊第四戦隊(第二戦隊の巡洋艦浅間と第九及び第十四水雷艇隊と陸軍運送船の三艘を伴う)は、主力と分かれて仁川に向かいました。瓜生司令官の任務は、中立港である仁川に碇泊中のロシア軍艦の巡洋艦ワリヤーグと砲艦コレーツの2隻を撃破することと、陸軍運送船の護送を行うことでした(関連資料1)。

 2月8日の夕刻、第四戦隊が臨時陸軍派遣隊の運送船を伴って仁川港に入港する際、仁川沖の八尾島付近でコレーツに遭遇しました。日本の水雷艇は2発の魚雷を発射しましたが当たらず、これに対しコレーツは発砲して応戦したものの圧倒されて仁川港に引き返しました。この小競り合いが、日露戦争における初めての交戦となりました(関連資料2)。

 直後、第四戦隊と運送船隊は仁川港に入港し、投錨しました。陸兵の揚陸作業は、ロシア艦の動静に留意しながら夜を徹して行われ、翌9日の午前6時頃にはほぼ完了しました(関連資料3)。そして午前8時、ロシアに対し、同日正午までに仁川港を退去することを要請しました。もし、これに応じず港内に碇泊すれば、攻撃を加えることも辞さないという旨の通告を行いました(関連資料4)。これを受けて、ワリヤーグとコレーツは仁川を出港しましたが、港外には瓜生艦隊が待ち構えていました。浅間の発砲を皮切りに開戦し、日露両艦隊は一時間にわたる砲撃戦を交えます。

▲アジア歴史資料センター、
ref.C05110037600
件名:第3号 明治37年2月9日 八尾島付近戦闘図
(防衛省防衛研究所所蔵)
▲装甲巡洋艦浅間
  明治38年2月 国後水道にて
  (財団法人三笠保存会所蔵)
▲防護巡洋艦浪速
  (財団法人三笠保存会所蔵)
▲アジア歴史資料センター、ref.C05110203200、
件名:明治37 8年海戦史付録写真帳、
(8画像目:明治三十七年九月二十七日
仁川港ニ於ケル露国沈没軍艦「ワリヤー
グ」排水工事中ノ光景) (防衛省防衛研
究所所蔵)

 しかし、ロシア艦が2隻のみであったのに対し、日本側の瓜生艦隊は、浅間をはじめ浪速、高千穂、明石、新高、千代田、千早と各4隻からなる第九艇隊・第十四艇隊の2つの水雷艇隊で編成されており、両者の間には大きな戦力差がありました(関連資料5)。ワリヤーグは、弾丸が命中し、前後部の両艦橋、中央部などに多大な損害を被りました。発砲で応じつつも、船体を左舷に傾かせ、火災をあげながら、ようやく仁川港に退却しました。これに従い、コレーツも仁川港に引き返しました(関連資料6関連資料7)。

 まもなく、ワリヤーグとコレーツは自沈し、ロシア艦の生存者は、イギリス、イタリア、フランスの軍艦に引き取られました(関連資料8関連資料9)。ワリヤーグは、翌年8月に引揚げられ、同11月に日本軍艦「宗谷」として横須賀に回航しました(関連資料10関連資料11)。

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関連資料

仁川沖海戦
C05110031700 関連資料1 連合艦隊の出発目的と行動予定
C09050720100 関連資料2 仁川入港の際、第四戦隊とコレーツの交戦に関する記述
C05110031800 関連資料3 陸軍韓国臨時派遣隊の上陸掩護に関する記述
C09020295100 関連資料4 仁川港退去命令
C05110037400 関連資料5 明治37年2月5日現在、日露両艦隊所在図
C05110031800 関連資料6 仁川沖海戦の戦闘詳述
C05110032700 関連資料7 仁川沖海戦の日本軍艦射程及び発射弾数表
C05110134800 関連資料8 ワリヤーグが自沈したことを示す記述
C05110032100 関連資料9 ロシア兵の被害状況及び生存兵の引き取り
C09020155600 関連資料10 ワリヤーグの引き揚げ事業
C09020155700 関連資料11 ワリヤーグの横須賀回航までの記録

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : C05110031700
件名 : 第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第1章 連合艦隊の組織及ひ出発

■資料解説

 

 『極秘 明治37.8年海戦史』のうち、旅順港奇襲攻撃及び仁川沖海戦についての記録が収録されている箇所です。第1章には、長崎佐世保港を出港した連合艦隊の組織や、出港の経緯などが記述されています。

 31~33画像目に、連合艦隊の出発の目的、行動予定などが記述されており、33画像目には、連合艦隊の行動予定表(2月6~8日)が添付されています。34~37画像に、陸軍の韓国臨時派遣隊の揚陸について陸海軍の間でなされた協議の内容が記述されています。

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関連資料2
レファレンスコード : C09050720100
件名 : 仁川方面作戦(部外秘)

■資料解説

 

 日露戦争参加者による回想録のうち、仁川方面作戦に関するものです。1~16画像目は、巡洋艦千代田の大石砲術長によるもの、17~54画像目は、第四戦隊参謀の森山中佐(当時)によるものです。

 25~28画像目には、2月8日のコレーツに対する魚雷襲撃の様子が記述されています。これによれば、魚雷の発射は、瓜生司令官の意思に反して行われたことが分かります。仁川港内では当方より攻撃してはいけないという訓令があったためです。また、コレーツの衛兵隊は千代田と敬礼交換までしていたことから、コレーツに戦意はなかったことが示されています。

 しかし、海軍大臣への電報(28~29画像目)には、コレーツが「運送船攻撃の態度に出たるものと水雷艇より二発の水雷を発射」したとありますので、コレーツの戦意の有無において電報と森山中将の回想には矛盾が生じていることになります。また、同電報に対し、海軍大臣から「水雷艇から二発の水雷を撃ったと云ふことは、此方が先に手出しをしたと云ふことになり不都合であるから、向こふから発砲したから此方が撃ったのだと云ふ風に電報報告を訂正して出せ」という回訓がありました(29画像目)。このように、日本側から戦争をしかけたことを公認することは不都合であるという心情がうかがえます。

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関連資料3
レファレンスコード : C05110031800
件名 : 第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第2章 陸軍韓国臨時派遣隊の上陸掩護及ひ仁川沖海戦

■資料解説

 

 『極秘 明治37.8年海戦史』の第2編の第2章です。2月9日の仁川沖海戦について、その前後の経緯を含めて詳細に記述されています。

 17画像目には、コレーツの魚雷襲撃の後、日本艦隊が仁川港に入港、投錨する様子が記述されています。

 17~18画像目には、ロシア側の妨害により無線電信が滞っていたものの、瓜生司令官は辛うじて巡洋艦高千穂より、2月8日午後10時に、明朝6時までに揚兵を終える予定であるという電信を得ることが出来、その後、無事に作業を完了させたことが記述されています。

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関連資料4
レファレンスコード : C09020295100
件名 : 明治37年 情報及祝電類(1)

■資料解説

 

 海軍省保管の日露戦争関連の公文書類を編冊した「日露戦書」のうち、電報及び祝電類を収録した資料です。

 2~4画像目は、瓜生司令官から海軍大臣宛の電報です。

 3画像目に「露国先任艦長に対し九日正午迄に仁川港を退去せむことを強請し若し応せされは港内に於て彼を攻撃するの止むを得さる旨九日午前八時通告を発し」とあります。

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関連資料5
レファレンスコード : C05110037400
件名 : 第1号 明治37年2月5日現在日露両艦隊所在図(付 勢力比較図)

■資料解説

 仁川沖海戦に参戦した日露の戦艦別の規模をトン数で比較した表です。

日露艦別のトン数比較    (単位:トン)

日 本 装甲巡洋艦浅間
巡洋艦浪速
巡洋艦高千穂
巡洋艦明石
巡洋艦新高
巡洋艦千代田
第九艇隊
第十四艇隊
9700
3759
3759
2800
3120
2450
4隻
4隻
ロシア 巡洋艦ワリヤーグ
砲艦コレーツ
6500
1213

  典拠:「第1号 明治37年2月5日現在日露両艦隊所在図(付 勢力比較図)」
  と海軍有終会編『近世帝国海軍史要(増補版)』(pp.934~935)より作成。

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関連資料6
レファレンスコード : C05110031800
件名 : 第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第2章 陸軍韓国臨時派遣隊の上陸掩護及ひ仁川沖海戦

■資料解説

 

 23~28画像目には、2月9日の正午過ぎから同午後1時20分、戦闘の終結に至るまでの仁川沖での戦闘の様子について詳細に記述されています。装甲巡洋艦浅間から発射された8インチの弾丸がワリヤーグの前後部の両艦橋に命中炸裂して黒煙を濛々とあげているという記述や、6インチの弾丸が3、4発、相次いで中央部に命中してワリヤーグは辟易して避難したという記述があります。

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関連資料7
レファレンスコード : C05110032700
件名 : 第3号 明治37年2月9日仁川沖海戦 帝国軍艦射程及ひ発射弾数表

■資料解説

 

 『極秘 明治37.8年海戦史』の第1部の巻1.2に付されている表です。仁川沖海戦における日本軍の各軍艦の射程距離及び発射弾数が示されています。

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関連資料8
レファレンスコード : C05110134800
件名 : 第2編 艦艇機関/第13章 戦利艦(戦利艦中臺岐沖島及ひ見島は第6部第2偏第8章満洲丸姉川丸松江丸及ひ韓崎丸は同第11章山彦及ひ皐月は同第9章に揚けあるを以て之を除く)

■資料解説

 

 『極秘 明治37.8年海戦史』の第6部「鑑船艇」のうち、戦利艦について記録された箇所です。

 33画像目に、後に戦利艦「宗谷」として日本海軍に編入されるワリヤーグが、2月8日の仁川沖海戦において第四戦隊の攻撃を受けて仁川港に引き返した後、自沈したことが示されています。

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関連資料9
レファレンスコード : C05110032100
件名 : 備考文書

■資料解説

 

 『極秘 明治37.8年海戦史』の第1部巻2の末尾に収録されている備考文書です。仁川沖と旅順口外における海戦についての戦闘詳報や電報等が掲載されています。

 6~11画像目には、「明治三十七年二月十三日瓜生第二艦隊司令官ノ提出セル同月八日、九日陸軍兵ノ仁川陸揚ケ保護及ヒ八尾島ニ於ル戦闘詳報」が掲載されています。

 そのうち9~10画像目(14項目)には、千代田艦長によるロシア艦の被害報告があり、ワリヤーグとコレーツの被害状況及び死傷者が報告されています(参照:表1、2)。一方、日本軍の被害については、敵弾を被らず、死傷者もなかったと報告されています。

 10~11画像目には、コレーツの爆沈とワリヤーグの沈没の様子が記述されています。

表1:露兵の死傷者数    (単位:人)

将  校 下士官以下
死   亡 1 40
負   傷 4 60

表2:艦艇別生存兵の引き取り人数    (単位:人)

総  数 内負傷者
英「タルボット」 300 20
伊「エルバ」 20 10
仏「パスカル」 200 20
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関連資料10
レファレンスコード : C09020155600
件名 : ワリヤーグ(宗谷)2止(3)

■資料解説

 

 日露戦争の戦時書類をまとめた「日露戦書」に含まれる、資料「明治37~38年 戦時書類 巻88 仁川沈没艦引揚2止 ワリヤーグ宗谷2止 コレーツ及スンガリー」(C09020155100)の一部です。この資料には、ワリヤーグ号の引揚げ事業について、事業計画、予算などを含む、具体的な経緯が記録されています。

 1~4画像目に、明治38年(1905年)8月8日にワリヤーグの引揚げが成功したこと、また、その事業は困難であったことが記述されています。

 51画像目は、ワリヤーグは佐世保に寄港させた後、横須賀に回航させることが示された電報案です。

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関連資料11
レファレンスコード : C09020155700
件名 : ワリヤーグ(宗谷)2止(4)

■資料解説

 

 8~9画像目は、軍艦宗谷としてワリヤーグが一旦佐世保に寄港した後、横須賀鎮守府司令長官に引き渡されることが示された電報案です。

 15~37画像目に、軍艦宗谷の明治38年(1905年)11月5日に仁川を出港し、11月30日に横須賀鎮守府に到着するまでの記録が収録されています。

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参考文献   海軍有終会編『近世帝国海軍史要(増補版)』、原書房、1974年
外山三郎『日露海戦史の研究 ―戦記的考察を中心として』、教育出版センター、1985年
大江志乃夫『世界史としての日露戦争』、立風書房、2001年
平塚柾緒『新装版 図説 日露戦争』、河出書房新社、2004年
 
 
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