『写真週報』の性格について、その発行主体である内閣情報局は、「写真といふ大衆に親しみやすく、また感情を引きつけやすい宣伝媒体を武器に、文字と相まつて国策をわかりやすく理解させ、時局意識を植えつけることに主眼を置いている」ものと規定していました(この点について詳しくは、「写真週報とは」の項目の1.「写真週報とは」をご参照下さい)。
 こうした性格をもつ『写真週報』では、写真のみならず漫画も数多く掲載されていました。ここではその中から特徴的な漫画記事を紹介します。

 上に掲げたのは昭和14年(1939年)12月6日付の『写真週報』94号に掲載されていた漫画記事です。この号を皮切りに、その後の『写真週報』には頻繁に漫画記事が登場するようになります。

 これは昭和15年(1940年)1月3日付の『写真週報』97号に掲載された時事に題材をとった漫画です。「今年こそは」というタイトル左の枠内には、「漫画募集」として、「○明朗な漫画、なるべく国策的な内容をもつもの ○原稿は墨で描くこと ○掲載のものには薄謝を呈す」などの漫画募集にあたっての条件が記されています。

 これは昭和15年(1940年)1月17日付の『写真週報』99号に掲載された漫画です。このページには、右側に漫画が、左側に「大きいものが小さくなって 小さいものが小さくなかったら」という写真を加工した娯楽記事が掲載されています。同様の娯楽記事は、以下に掲げた昭和15年(1940年)1月3日付の『写真週報』97号にも見られます。

 またこの頃には、以下に掲げた三枚のように、写真を加工し漫画と組み合わせた記事も見られました。

 上段の写真は、昭和14年(1939年)12月20日付の『写真週報』96号の記事です。中段の写真は、昭和15年(1940年)4月10日付の『写真週報』111号の記事です。下段の写真は、昭和15年(1940年)12月18日付の『写真週報』148号の記事です。

 その後も『写真週報』には数多くの漫画記事が掲載されます。下に掲げたのは、昭和16年(1941年)5月28日付の『写真週報』170号の漫画です。先に見たように『写真週報』では漫画募集がなされていましたが、この号からは「読者の漫画」という表題が付された漫画記事が登場します。

 下に掲げたのは、昭和16年(1941年)12月10日付の『写真週報』の漫画です。太平洋戦争開戦直前に編集されたと考えられるこの号には、従来と同様「読者の漫画」のコーナーが存在します。

 下に掲げたのは、太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941年)12月31日付の『写真週報』201号です。開戦直後の新年号となったこの号には、「決戦下の春」として、太平洋戦争に題材をとった漫画が掲載されています。

 下に掲げた写真の上段は、昭和17年(1942年)2月15日付の『写真週報』209号です。ここにはこの209号編集中に進んでいたと考えられるシンガポール攻略戦の最終段階の様子を漫画として描いたものです。
 下段は、昭和17年(1942年)6月24日の『写真週報』226号です。ここでは太平洋の各地に展開する日本軍の様子が漫画で表現されています。

 その後戦局が悪化する中で、国民に対していっそうの戦争協力を求める漫画も掲載されました。下に掲げたのは、昭和18年(1943年)12月8日付の『写真週報』300号です。ここでは、「生活をきりかへて戦力を生まう」との表題のもと、生活の諸局面での戦争への協力が訴えられています。
 昭和19年(1944年)1月5日付の『写真週報』303号からは、「フクちゃん」で知られる漫画家である横山隆一の「決戦兄弟」の連載が開始され、毎号ではないもののこの後の号にしばしば掲載されます。下に掲げた写真は、『写真週報』303号の第一回目の「決戦兄弟」です。



 

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