『写真週報』に掲載された数多くの写真には、その撮影者として、政府関係機関の報道部や個人の名前が記されています。その中には、後に写真家・ジャーナリストとして名を成す人々も含まれています。ここではその中から木村伊兵衛、土門拳、そして大宅壮一が撮影した写真と関連資料を紹介します。


 『写真週報』の創刊号には、上に掲げた表紙及び11画像目の写真の撮影者として木村伊兵衛の名前がみえます(資料1の12画像目右下)。

 木村伊兵衛は、明治34年(1901年)生まれ、大正9年(1920年)台湾の砂糖問屋に入社し勤務の傍ら営業写真を学び、大正11年(1922年)に帰国、大正13年(1924年)から写真館を開業しました。昭和8年(1933年)には名取洋之助らと日本工房を設立し、報道写真にも携わりました。その後昭和9年(1934年)には日本工房を脱退し新たに中央工房を設立、さらに同年9月には国際報道写真協会を設立し活躍しました。その後昭和25年(1950年)には、日本写真家協会の会長に就任しました。

 資料1は、木村の撮影にかかる写真を表紙に用いた昭和13年(1938年)2月16日付の『写真週報』創刊号です。

 資料2は、木村伊兵衛が国際報道写真協会の代表として、海軍省と海軍少年航空兵の教育、生活の写真撮影の許可についてやりとりを行なった際の資料です。この資料には国際報道写真協会の第1回の事業報告書(7画像目〜11画像目)、国際報道写真協会設立の主旨(12画像目〜13画像目)が含まれており、国際報道写真協会の活動の一端がうかがえます。




 その他、木村伊兵衛の撮影による写真としては、以下のようなものがあります。
 


 昭和13年6月8日付の『写真週報』17号には、上に掲げた表紙及び4画像目〜7画像目、10画像目〜11画像目の写真の撮影者として土門拳の名前がみえます(資料3の12画像目右下)。

 土門拳は、明治42年(1909年)生まれ、昭和8年(1933年)宮内幸太郎写真場の内弟子となり報道写真家を志し、昭和10年(1935年)に名取洋之助、木村伊兵衛らが設立していた日本工房の社員となりました。その後昭和14年(1939年)日本工房を退社した土門は、外務省の外郭団体である国際文化振興会の嘱託カメラマンとなり、昭和15年(1940年)には日本報道写真家協会を結成し紀元2600年奉祝撮影隊を編成しました。

 資料3は、土門拳の撮影にかかる写真を表紙や記事に用いた昭和13年(1938年)6月8日付の『写真週報』17号です。




 その他、土門拳の撮影による写真としては、以下のようなものがあります。
 


 昭和13年6月29日付の『写真週報』20号には、内蒙古に関する記事の写真撮影者として大宅壮一の名前が見えます(上掲写真中央円内の左下)。

 大宅壮一は、明治33年(1900年)生まれ、大正14年(1925年)東京帝国大学文学部社会学科を中退後、新潮社嘱託、東京日日新聞社社友などをへて日中戦争期には従軍記者として中国各地を取材しました。昭和16年(1941年)には第16軍宣伝班に徴用され、翌年にはインドネシアのジャワ島にわたり、昭和18年(1943年)10月帰国しました。戦後は多数の評論を著し、数多くの流行語をうみだしました。

 資料4は、大宅壮一の撮影にかかる写真や記事を掲載した昭和13年(1938年)6月29日付の『写真週報』20号です。この資料の中の「内蒙紀行」と題された文章には、大宅壮一の署名がみられます(6画像目)。




 その他、大宅壮一の撮影による写真としては、以下のようなものがあります。




 

Japan Center for Asian Historical Records