戦時中、生活への統制が強まる中で、華美な服装や髪型は抑制の対象として重視されるようになりました。『写真週報』では、国民がどのような衣服を着用し、髪型にするべきかについて、わかりやすく写真で説明しています。資料1は「ぜいたく夫婦よ、さようなら…」と題し、服装・髪形の良い例・悪い例が示されています。
折しも被服の合理化と軍民衣服近接を目的として、国民服の制定についての議論が行なわれ、昭和15年(1940年)11月1日には男子の国民服が制定されます。資料2は国民服令の御署名原本、資料3は被服協会から発行された「国民服(男子用)の手引」で、国民服の詳細な内容と図が記されています。
資料4の『写真週報』の「国民服が決まりました」という記事のなかで、国民服制定の経緯と内容について詳しく記述され、国民服の着用を促しています。ここでは、今の日本の服装が「衣装博物館」と批評されるほど和洋混合・多種多様で、国民は「無用の混乱と負担を課せられている」と述べられ、さらには日本の服装は欧米の模倣文化で自主性がないため、「国運の飛躍的発展に際して欧米の流行に追随せずに自主独特の立場で、東洋の諸民族を指導するにたる服装文化を確立しなければならない」と述べられています。
同様の考えのもと、昭和17年(1942年)4月には女子の標準服が制定されます。資料5は標準服の詳しい図も示されています。ここでは、標準服は「日本人の服装として相応しく日本的性格を表現することを根本理念とする」と述べられており、活動によって甲型・乙型・活動衣の3種類がつくられ、和服の要素が取り入れられています。
しかし、男性の国民服はある程度普及したのに対し、女性の標準服は根付かなかったようです。清沢洌は昭和19年(1944年)4月28日の日記で、「婦人の服装が、一割は紋平姿、一割六分とかは国民服、一割ぐらいはズボンといった具合になったそうだ。朝のラジオの話。つまり銀座街頭を通る婦人の半分は戦時服装だ。その服装が極めて怪奇複雑なもので、要するに何でもいいといったもの。無統一で醜悪だ。ここらに現代日本の表現があろう。」と述べています。こうした「無統一」さは、資料6の『写真週報』の「決戦衣服はこれだ」における模範的な服装をみると垣間見ることができます。ここで強調されているのは、衣服を「新調をやめて有るものを着れるだけ着ようということ」です。
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