アジ歴ニューズレター第38号

2022年8月31日 発行

特集

津絵太陽氏インタビュー

アジア歴史資料センターで公開している資料は、これまでも映像作品等の時代考証で活用されてきました。画家の津絵太陽さんは、アジ歴の公開資料を縦横に読み込みながら作品のインスピレーションを形成し、開拓民として満洲に渡った曽祖父も見たであろう現地の風景を、精緻な筆致でキャンバスに描くという、斬新なスタイルで作品制作に向き合っています。そこで本号では、津絵さんに作品の着想段階から完成までのプロセスを伺い、歴史資料が絵画という芸術作品にどのように結実するのかを可視化することで、資料活用の新たな可能性をお示ししたいと思います。

プロフィール
津絵太陽(つえ・たいよう)
1996年宮崎県生まれ。画家。東京芸術大学大学院美術研究科油画技法材料研究室に在籍中。2018年美岳画廊、2019年銀座STAGE-1、2020年美岳画廊、2021年日本橋髙島屋で個展を開催。2022年7月には美岳画廊で個展「そらのいろ」を開催。満洲開拓民の終戦後の行く末を描いた、籠原あき『あなたはどこにいるのか』(春秋社、2022年)では、表紙画を提供している。

 ―アジ歴を利用するようになったきっかけを教えてください。

 2019年に満蒙開拓団にいた曽祖父の歴史を調べていた際に、昭和館に勤めていた方にアジ歴を教えてもらったのがきっかけです。最初は何をどう調べたらいいのかわからないというところからスタートしました。
 はじめは、先行研究に記載されているレファレンスコードで検索して調べていましたが、最近は人物、機関、事件名などのキーワード検索で資料を探しています。「このワードで引っかからないなら、こちらのワードに変換して検索したら引っかかるかな」とか、資料が膨大に出てきたら「検索条件を変えて、期間を指定して検索し直してみよう」とか。ちょっとずつコツをつかんできました。
 今は陸軍の特務機関にいた人物について調べているのですが、諜報活動に従事していたことから氏名が記されていることは少なく、名前を入れてもキーワード検索ではあまり出てこないですね。「機関長」としか書いていないことも多いので、「この時期の特務機関長だからこの人だろう」と時期から類推しながら、人物を推定しています。

 ―現在取り組まれている作品は何ですか?

 今年は、ハイラルという都市をテーマに描こうと思っています。1939年(昭和14)のノモンハン事件にも関わりがあり、第23師団の駐屯地だったところです。コロナ前は現地でのフィールド調査で、旧満洲の空気感を捉えながら描いていましたが、厳しい感染対策が続いているので渡航できません。そこで現地取材に代わる制作方法を考えていた時に、1936年にハイラルで撮影された一冊のアルバムと出会いました。現地に行けなくても、アルバムに残された写真や資料、証言から作品を作れないだろうかと思いました。関連資料を探している中、アジ歴で見つけたちょっと面白いなと思った資料がこれです(画像1)。

【画像1】件名「イ)施与/8)満洲里、海拉爾、齊々哈爾」(簿冊名「西比利亜経済援助関係雑件 物資供給 供給実施」)、Ref.B11090499200、3画像目(原資料の所蔵先=外務省外交史料館、請求番号3.4.1.23-23-2)

 ロシア革命で、旧満洲に逃げてきたロシア人の難民に、日本領事館が発案し、日本軍が協力してクリスマスプレゼントをあげたという報告書です。プレゼントの品目や数量、ロシア語のレシートまであり、当時の様子を具体的に知ることができます。「日本製品の質の高さをプレゼントでアピールしたい。でも欧米にかなわないものがあれば、あきらめてロシア商店で買いなさい」とか、「日本のおもちゃが輸送中に割れてしまった。プレゼントを渡す時にも割れたから、丈夫なやつを持ってこないとダメ」など、注意書きも書かれています。この地域に進駐した日本軍が、住民から信頼を得るために行ったのでしょう。ロシア移民が8000人近く逃げてきていたことも資料からわかります。

 ―1919年(大正8)に作成された資料なので、ロシア革命の直後ですね。

 そうですね。制作に直接リンクしてこないだろうなと思っていたのですが、この一冊のアルバムを紐解く中で、実はちょっと関係があるかもしれないと思うものが見えてきました。
 このアルバム(画像2)は、内モンゴル出身の妻の知り合いで、ハイラル出身のバトアラビン・アリウナさんが形見分けでもらったものです。僕が旧満洲のことを調べていると話したら、アリウナさんが「うちにアルバムがある」と見せてくれました。

(【画像2】1936年にハイラルで撮影されたアルバム。全48ページ、写真点数72枚)

 アリウナさんも、ロシア革命でブリヤートから逃れてきたブリヤート=モンゴル人のルーツを持つ方です。アルバムの持ち主であった公宅静江(おおやけ・しずえ)さんは、1935年から2年間ハイラルに暮らしていました。戦後は大阪に住んでいて、アリウナさんが大阪外語大に留学してきたタイミングで知り合ったようです。
 アルバムには、興安北警備軍の日本人顧問や上尉の家族、モンゴル人部隊の将軍など、旧満洲の様々な民族が登場します。「海拉爾の父」として、あらゆる民族の人々からも親しまれていた興安北警備軍の顧問寺田利光や、寺田の公邸で撮影された写真が多く残されています。これも寺田利光の公邸で撮影された一枚です(画像3)。ダンスパーティーの集合写真には、白系ロシア人たちと一緒に静江さんも写っています。

 
(【画像3】中列右から3人目公宅静江)

 この写真が撮影された1936年は、ベルリンオリンピックの年です。ここに写っている人たちが20代だとしたら、さきほど述べた資料のクリスマスプレゼントを小さい頃にもらっていた可能性がある。そう考えると、たまたま見つけた資料も制作に関係してきます。
 これは寺田利光の家族写真です(画像4)。使用人にロシア人や中国人がいるのがわかります。当時のモンゴル人、ロシア人、日本人など、色々な民族が相互に関わっていた暮らしが垣間見えます。

(【画像4】前列左から2人目寺田利光)

 寺田利光に関する資料はほとんど残っていませんが、東京外国語学校蒙古語科(現在の東京外国語大学)を卒業した後、駐在武官としての任務の傍ら、現地住民の夫婦の争い事の仲介役を担うなど、とても気が利く優しい人だったようです。また川で家族や使用人と水遊びをする写真もあります。軍の特務機関で諜報活動を行う非情な仕事は、本人なりに葛藤があったという話も聞きました。寺田にしかできない仕事をしていた、重要な人物であったと思います。寺田利光の死後、ハイラルの駅前には寺田の銅像が建てられていました。

―写真に出てくる人物はどのように特定していくのですか?

 元の写真がかなり粗いので、特定は難航しています。アルバムに登場する人物リストを作って(画像5)、同一人物か推定しています。今のところ特定できたと考えているのは約30人です。登場頻度が高い人ほど、アルバムの持ち主と関係が近しいことがわかります。

(【画像5】津絵さん作成の人物リスト)

 すべての写真に番号を振って、写っている数を書き出していくと、別人だと思っていた人が、軍服と私服で違う人物に見えただけだとわかったこともありました。例えば、この写真(画像6)は1935年のハルハ廟事件で撮影された一枚で、防寒着を着た日本軍と「満洲国」の日系軍官や通訳官が写っています。左から4人目(画像6)が、右の写真(画像7)で言うと左側の人物、岡本俊雄です。

(【画像6】左から4人目岡本俊雄)
(【画像7】左側岡本俊雄)

―人物リストと写真を照らし合わせて、個人を推定していくのですね。名前はどのように推定していますか?

 聞いたことがない名前の人、公文書に登場しない民間の人々の推定はなかなか難しいです。
 彼(画像8写真左)は興安北警備軍の将軍で、ウルジン・ガルマーエフと特定できました。ブリヤート=モンゴル人でブリヤート人の将軍ですが、モンゴル服を着ているとこんな感じです(画像9)。
 寺田とウルジンは、1927年頃にロシア人を介して知り合ったようです。2人はモンゴル語とロシア語を話しましたが、普段の会話はロシア語だったようです。家族同士で写る写真も残されており、2人が互いを尊重し、信頼しあっていたことがうかがえます。

(【画像8】ウルジン・ガルマーエフ)
(【画像9】中央がウルジン・ガルマーエフ)

 ブリヤート人は、モンゴル語だけでなく、欧米の文化も知っているのでロシア語もできる。二つの言語ができるブリヤート人を日本人は「使える」と都合よく考え、ブリヤート=モンゴル人を優遇したと聞きます。ウルジンなどは満洲里会議に出て、国境線の話し合いにも参加していました。
 この時代のモンゴルは、ロシア、中国、日本の三国に翻弄されます。外蒙古はソ連に押さえられて、内蒙古は中国の領土と建前では言いつつ、独立を試みたり、日本と組んでみようとしたりしていました。
 アルバムの舞台であるフルンボイルでも、2度にわたって独立の動きが起こっています。2度目の独立運動はメルセ(中国名:郭道甫)が起こしましたが、周囲からの援助が受けられず失敗に終わりました。フルンボイル独立を放棄したメルセが、最終的に傅作義に講和を申し入れた頃の歴史をアジ歴の資料で調べていたときに、寺田が傅作義に仲介を申し入れる橋渡しの役をしたことがわかりました。

【画像10】件名「13 昭和3年9月8日から昭和3年9月29日」(簿冊名「満蒙政況関係雑纂 呼倫貝爾ノ部 第一巻」)、Ref. B02031789500、1画像目(原資料の所蔵先=外務省外交史料館、請求番号A.6.1.2.1-16)

 1927年頃から寺田はハイラルにいて、満鉄の社員も諜報活動をしていました。1928年の外務省ハルビン総領事から外務大臣への報告電報(画像10)の中に、寺田利光の名前が見られます。また、寺田はウラジオストク駐在時、参謀本部の露西亜班に所属していたようです。1928年6月の陸軍大臣から寺田利光に対する訓令(画像11)には、「諜報業務に従事スヘシ」と寺田が諜報業務を担っていたことが明記されています。

【画像11】件名「寺田少佐へ訓令の件」(簿冊名「陸支密大日記 第1冊 昭和3年」)、Ref.C04021683100、5画像目(原資料の所蔵先=防衛省防衛研究所、請求番号 陸軍省-陸支密大日記-S3-1-34)

 電報も貴重な手掛かりになります。1928年の寺田利光宛の電報(画像12)には「ハイラル駅を通過するから毛布を用意しておいてほしい」という指示や、前に所属していた部隊からの通信などもありました。個人宛で、仲間うちの手紙からも、当時の様子や普段の仕事を想像することができます。

【画像12】件名「電報、書簡(1)」(簿冊名「外部来翰綴 昭和3年8月以降」)、Ref. C13010118900、21画像目(原資料の所蔵先=防衛省防衛研究所、請求番号 満洲-全般-242)

 これ(画像13)もアリウナさんがアルバムと一緒に見せてくれたもので、興安省北警備軍顧問部の用箋に書かれた寺田利光の手紙です。
 この手紙は1936年3月20日に書かれたものですが、寺田はこの前年に脳溢血で倒れ、右半身麻痺の後遺症を患っています。文字を書くことが困難であったようで、手紙にもその事情が述べられています。手書きでないことを詫びつつ、「但し之はシヅエさんか打つたのてす」と書いてあることから、寺田が静江さんにお願いしてタイプしてもらったようですね。

【画像13】アリウナさん提供資料

 寺田利光はハイラルで病死しています。亡くなった日付は、1937年7月16日。最後の階級は陸軍砲兵大佐でした(画像14)。

【画像14】件名「故陸軍砲兵大佐寺田利光位階追陞ノ件」(簿冊名「叙位裁可書・昭和十二年・叙位巻二十八」)、Ref.A11114487400、4画像目(原資料の所蔵先=国立公文書館、請求番号 叙01379100)

―これまでのお話しを伺っていると、資料の活用方法の新たな可能性を感じますね。

 研究と観点が違うところは、ビジュアル面のリサーチがあることでしょうか。何年何月何日にこういうことがあった、ということがわかっても、それがどんな場所で起こったのか、そこにどんな建物があるのか。何月とわかれば、どんな草が生えているのか。日用品の小物など細部に至るまで、知らないと描けません。当時流行っていた服はどんなものだったのか。ロシアから持ち込んだのか、ハイラルの街で買ったのか。勝手にストーリーを作るのではなく、事実をちゃんと検証して、自分の感情を持ち込まないように気をつけています。作品にある一定方向の思想を持たせて、どこかの路線に偏っていってしまうと、資料をきちんと使って絵を描くことの価値が薄れていくのではないかと思います。

―資料を通じて作品と向き合っていく姿勢が作られた背景は?

 大学2年の頃に、曽祖父の大島紬をもらいました。でも、曽祖父の顔を見たことはありません。曽祖父は輸送船の船長で、1945年ごろ沖縄で亡くなったらしいとは聞いていました。前述の開拓団にいた曽祖父ではないもう一方の曽祖父なのですが、知ろうと思っても、まったく調べ方がわからずほとんど何もわからなかったのです。その時のリサーチ力不足が引っかかっていて、開拓団の曽祖父を知る上では、できるだけ手広く、徹底的に調べようと考えました。

―資料調査は好きですか?

 資料と資料が繋がっているということは、一つ一つの資料を地道に見ていかないと見落としてしまいます。だからこそ、繋がった瞬間って、面白いですよね。完全に別ジャンルだと思っていた資料が、「あー、そこでつながるのか!」って。
 描くモチーフが自分なりに把握できたなと思えたら、いったん調査に区切りをつけられます。写真をもとに描く時には、映り込んでいるものを描けばいいという訳でもなく、なぜこの人がここに写っているのか、なぜこの服装なのかということを自分は知った上で描きたい。途中で疑問が出てきたら、いったん制作を止めてまた調べて、その繰り返しです。

―ハイラル作品の発表予定はありますか?

 来年(2023年)1〜2月の大学院修士課程の修了制作で、ハイラルシリーズを発表する予定です。個人に焦点を当てた肖像シリーズがメインになりそうなので、それぞれの民族の来歴をきちんと把握しておくことが重要になります。どの人物を何枚描くのか。民族の構成の割合をどうするのか。モンゴル人という括りの中にも、いろんな系統のモンゴルがあります。モンゴル、日本、中国、ソビエト、朝鮮。「満洲の五族」がこの「ハイラルアルバム」に写り込んでいます。

―名もなき人たちの歴史が、一冊のアルバムを紐解くことでこれほどまでに明らかになり、それが制作へとつながるのですね。

 最初はここまで人物がわかるとは思っていませんでした。人間の関係を見ていくと、どこで誰と誰がつながるか、本当にわからないですよね。7人知り合いがいると、全世界の人とつながると言いますが、このアルバムの主要人物5〜6人だけでも、そこから果てしなく人間関係が広がり、意外なつながりが張り巡らされている。
 ハイラルアルバムに写っているロシア人が、その後どうなったのかが気になって、少し調べてみたところ、「満洲国」崩壊後ソビエト軍が入ってくると、赤軍を恐れて、旧満洲から上海、北京、最終的にはオーストラリアや中央アジアの方まで逃げたという記録もありました。
 このアルバムの写真が撮影された1936年は動乱の年です。本当にいろいろな出来事があった一年に、人が交差した記録がここにある。十年後に歴史はまた大きく動き、ここに写っている人たちも、ほとんどこの場所に残っていません。ただ単に1936年だけを切り取ってもわからない。公文書から私文書まで、様々な資料を通して、前後を多角的に把握していくことで読み取れる人間的な体温や生活感を描く。それができるのが絵なのかなと思います。

※2022年4月22日及び6月20日インタビュー実施

<アジ歴による用語解説>
津絵さんのお話しには、地名、人名、事件名等の歴史的用語が多数出てきます。中には一般的にあまりなじみのないと思われる用語もありますので、読者の皆様により理解していただくため、アジ歴で用語解説を用意しました。適宜ご参照ください。
※用語は登場順に並んでいます。

・ハイラル
現在の中国・内モンゴル自治区の都市。「満洲国」成立後は興安北省に含まれた。ソ連からの攻撃に備えるために、1937年関東軍によってハイラル要塞が築造された。漢字表記は海拉爾。

・ブリヤート人
バイカル湖周辺やハイラル、モンゴル北部に居住する北方モンゴル族。元々は複数の氏族から構成されていたが、17世紀のロシア人による侵入以降、ブリヤートの名を冠するようになったとされる。

・白系
1917年のロシア革命の結果、成立したソビエト政権に反対する立場のこと。

・興安北警備軍
「満洲国」成立後、興安北分省に編成された「満洲国」軍の部隊。司令官はウルジン・ガルマーエフ。

・上尉
「満洲国」軍の軍人の階級。日本軍の大尉に相当する。

・寺田利光
1882年東京生まれ。陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校及び陸軍野戦砲兵学校を卒業後、陸軍砲兵少尉に任官。1924年東京外国語学校でモンゴル語を学ぶ。1927年私費留学でモンゴルを訪問し、ウルジン・ガルマーエフと出会う。1932年8月ハイラル特務機関勤務を命じられる。1933年8月興安北分省警備軍顧問に着任。1937年ハイラルで病死。

・ハルハ廟事件
1935年1月、「満洲国」とモンゴル人民共和国の国境にあるハルハ廟で起こった衝突事件。モンゴル軍部隊がハルハ河を越えたことを不法越境とみなした関東軍が、「満洲国」軍興安北警備軍を派遣し、モンゴル軍と戦闘の結果、両軍に死傷者を出した。

・岡本俊雄
大阪外語学校(現在の大阪外国語大学)モンゴル語科卒業。興安北警備軍のウルジン司令官の通訳を務めた。2004年没。

・ウルジン・ガルマーエフ
ザバイカルからフルンボイルに移住した白系ロシア人。1932年から1944年まで「満洲国」軍興安北警備軍の司令官を務める。1936年の凌陞事件(「満洲国」興安北省長の凌陞が、モンゴル人民共和国側と通謀していた嫌疑で関東軍に逮捕・処刑された事件)の際、取調べを受けたが、寺田利光の奔走により釈放される。終戦後ソ連軍占領司令部に出頭し、1947年モスクワで処刑される。

・満洲里会議
「満洲国」成立以降、「満洲国」とモンゴル人民共和国の間に頻発していた国境紛争を解決するために開催された会議。興安北警備軍のウルジン・ガルマーエフ司令官も参加した。1935年から1937年にかけて開かれたが、成果を挙げるには至らなかった。

・メルセ(中国名:郭道甫)
1894年フルンボイル生まれ。1920年代の内モンゴルの革命運動に深く関与した。1928年に内モンゴルの自治回復を求めて武装蜂起したが頓挫した。没年不明。

・傅作義
中国国民党の軍人、政治家。1918年保定陸軍軍官学校卒業後、山西軍に加わる。1928年8月、国民革命軍第3集団軍第5軍団総指揮兼天津警備司令に就任。1931年12月綏遠省政府主席に就任。1974年没。

※アジ歴で用語解説を作成するにあたり、以下の文献を参考にしました。

  • 伊敏「近代におけるフルンボイル地域の形成―「バルガ」から「フルンボイル」になるまで-」(『昭和女子大学大学院生活機構研究科紀要』第30号、2021年)
  • アリウンサイハン マンダフ「満州里会議に関する一考察」(『一橋論叢』第134巻第2号、2005年)
  • 梅棹忠夫監修、松原正毅編集『【新訂増補】世界民族問題事典』(平凡社、2005年)
  • 及川琢英『帝国日本の大陸政策と満洲国軍』(吉川弘文館、2019年)
  • 小澤親光『秘史満州国軍―日系軍官の役割』(柏書房、1976年)
  • 駒村吉重「歴史の闇に葬られた 満洲国のモンゴル人将軍」(『新潮45』、2001年12月号)
  • 周太平著、田中剛訳「郭道甫(メルセ)とその時代―1928年フルンボイル青年党蜂起を中心に」(田中仁ほか編『共進化する現代中国研究』大阪大学出版会、2012年)
  • セルゲレン ポリジギン「満州国の東部内モンゴル統治」(『本郷法政紀要』第11号、2002年)
  • 滝波秀子「“海拉爾の父”寺田利光大佐の周辺──幻と消えた“ユートピア”」(中村喜和、 縄光男、ポダルコ・ピョートル編『異郷に生きるIV 来日ロシア人の足跡』成文社、2008年)
  • 田中克彦『ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国』(岩波新書、2009年)
  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(1)対ソ戦備・ノモンハン事件』(朝雲新聞社、1969年)
  • ボルジギン・ブレンサイン編著『内モンゴルを知るための60章』(明石書店、2015年)
  • 牧南恭子 『五千日の軍隊―満洲国軍の軍官たち』(創林社、2004年)
  • 満洲弘報協会『満洲国の現住民族』(満洲弘報協会、1936年)
  • 森久男『日本陸軍と内蒙工作 関東軍はなぜ独走したか』(講談社、2009年)
  • 山田辰雄編『近代中国人名辞典』(財団法人霞山会、1995年)
  • 楊海英『日本陸軍とモンゴル』(中公新書、2015年)

  • 企画・構成:大川史織(アジア歴史資料センター調査員)
    編集総括・用語解説:金子貴純(アジア歴史資料センター研究員)