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2. 開戦 : 日清の朝鮮への出兵と戦闘の始まり~宣戦布告

日清両国の朝鮮出兵決定

1894年6月3日、農民たちの蜂起(甲午農民戦争)を自らの手で鎮圧することは難しいとの結論に達した朝鮮政府は、清国に対して出兵要請を行いました。清国はそれまですすんで軍事行動を起こすことを控えていましたが、正式に要請を受けると、北洋通商大臣と直隷総督を兼任する李鴻章がただちに朝鮮への軍隊の派遣準備にかかり(→関係公文書①)、6月5日には軍艦2隻が仁川に到着、続いて8日から12日にかけて、2,000名規模の陸軍部隊も海路から朝鮮半島に入り、牙山への駐留を開始します。

一方で、日本政府も6月2日に朝鮮への出兵を閣議決定しました(→関係公文書②)。その名目は、農民蜂起による朝鮮国内の混乱から現地の日本の公使館や居留民を保護するというものでした。なお、この時点では、朝鮮政府において清国への出兵要請を行う動きがあることは日本側でも察知していましたが、実際に清国が出兵するかどうかはまだ不明な状況でした。この閣議決定では、緊急を要するため、天津条約(1885年4月18日)の取り決めにしたがい清国に通知した上で直ちに出兵を実行するものの、いずれは日清で協力して蜂起の鎮圧にあたる可能性もあるとされています(→関係公文書③)

6月5日には参謀本部内に大本営が設置され、日本は制度上の戦時に移行しました。この時派遣が決定された兵力は、清国から派遣される兵力に劣ることがないようにとの考えから規模が大きく、6月10日に一時帰国から朝鮮に戻る大鳥圭介駐朝鮮公使と共に400名程の海軍陸戦隊が漢城に入ったのに続き、12日には、単独で戦闘を行う能力を有する8,000名規模の混成旅団が仁川への上陸を開始します。こうして、朝鮮に日清両国の軍隊が留まるという、1884年の甲申政変以来の事態が再び起こることとなりました。

甲午農民戦争の終息と日清間の緊張の高まり

日本と清国が朝鮮への出兵を進めている頃(天津条約に従った相互の通告は6月7日)(→関係公文書④)、この両国が出兵の理由としていた甲午農民戦争が、6月11日に朝鮮政府と農民軍との間で全州和約が締結されたことで終息を迎えることとなります。これによって、日清共に朝鮮国内に軍隊を駐留させておく根拠が失われ、朝鮮政府からは両国に対して撤兵が要求されました。

ここで日本政府は清国政府に対し、朝鮮の内政の改革を日清両国が共同で行うこと、この間は両国の軍隊を朝鮮内にとどめること、もし清国が共同での改革に合意しなければ日本が単独でこれを行うこと、という内容の提案を行いました。しかし清国側からは、農民蜂起が既に鎮圧されている以上まずは撤兵すべきであり、また、朝鮮の内政改革は朝鮮自らが行うべきである、という回答が6月22日に寄せられました(→関係公文書⑤)。これに対し、日本は撤兵を拒否することを清国に伝えると共に(→関係公文書⑤)仁川への上陸を終えていた混成旅団の先発部隊4,000名の一部を漢城方面に移動させ、待機中であった後発部隊の輸送も再開させます。

続いて日本政府は、朝鮮の内政改革を日本単独で行うべく朝鮮政府に対する働きかけを行いましたが、この中では、清国と朝鮮の関係、すなわち「属国(朝鮮)―宗主国(清国)」という宗属関係についての認識を朝鮮政府に問いただしました(→関係公文書⑥)。これに対し朝鮮側から、自らの国は自主国であるとの回答があったことから、日本政府内では、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きであると見なし、朝鮮に代わって日本が清国を攻撃するべきであるという考え方が強まっていきます。

このような日清間の緊張の高まりを見て、他国も動きを見せるようになります。6月30日には、ロシア政府が日本政府に対し朝鮮からの撤兵(日清同時撤兵)を要求しましたが、日本政府は撤兵拒否の意向を返答しました(→関係公文書⑦)。その一方で、当時ロシアの東アジア進出を強く懸念していたイギリスからも仲裁の申し出がありました。イギリス政府は日清両国に対して、朝鮮の内政改革に際しての相手国への要求事項を問い、日本政府は清国と同等の権利と特権を認めることを求めましたが、清国政府は7月9日に、日本のこの要求に応じることなく日清同時撤兵を最優先することを求める回答を行いました。これを受けた日本政府は清国政府に非難文書を送付すると共に(→関係公文書⑧)、ロシアやイギリスとの交渉の間中断させていた開戦準備を再開させます。これに対し清国でもまた、日本との開戦は避けられないという認識がにわかに強まりました。

日本軍の朝鮮王宮占領

7月3日、日本政府は朝鮮政府に対し内政改革の具体的な案を提示しました(→関係公文書⑨)。しかし、清国との関係を重視する閔妃一族の影響力が強かった朝鮮政府からは、改革よりも日本軍の撤退を優先してほしいという要求が返されると共に、校正庁という役所の設置などによって朝鮮自ら内政改革を行う姿勢が示されました(→関係公文書⑩)。日本側では、この姿勢は実質を伴わないものであり朝鮮政府は改革の意志がないとの判断から、強硬手段をとるための準備にかかります。

7月19日に大鳥圭介駐朝鮮公使が朝鮮政府に対して示した要求は、漢城釜山を結ぶ軍用電線と日本軍兵士のための兵営とを、いずれも朝鮮側で設置することを求めるという、朝鮮政府にとっては受け入れることが極めて困難なものでした。さらに翌20日には、清国軍を朝鮮から撤退させること、過去に朝鮮と清国との間で締結された「中国朝鮮商民水陸貿易章程」「中江通商章程」「吉林貿易章程」を破棄すること、という2点の要求が付け加えられます(→関係公文書⑪)。この新たな2点の要求は、いわば朝鮮と清国との間の宗属関係を否定せよという意味合いを持つものでした。日本側はこれらの要求についての回答期限を7月22日と定めました。

7月22日深夜に朝鮮政府から届いた回答は、以前と同様に朝鮮政府が自ら改革を行うことと日清両軍の撤退を求めることのみを示すものだったことから、日本政府は、武力によって現在の朝鮮政府を倒した後に、興宣大院君を推して新政府を組織させ改革を実施させる、という計画を実行します。

7月23日未明、大鳥公使の指令を受け、漢城郊外の龍山にあった大島義昌陸軍少将率いる混成旅団が漢城に入りました。そして、午前4時半過ぎ頃には、朝鮮国王高宗が居住し政府が置かれていた王宮(景福宮)を包囲し、やがて門を破壊するなどして内部への侵入を開始しましたが、間もなく王宮を警備していた朝鮮兵士との間で銃砲による戦闘が始まります。

→メインページの「明治27年(1894年)7月23日 日本軍が漢城の朝鮮王宮(景福宮)を占領」の項目を見る

戦闘は双方に犠牲者を出しつつ数時間で治まり、王宮は日本軍の占領下に置かれました。国王高宗はこの戦闘中に身を隠していたところを日本兵に発見されてその身を確保され、また一方の興宣大院君は戦闘が終了した後に日本軍の護衛の下で王宮に入りました。その後この日のうちに大鳥公使を宮中に呼び出した高宗は、大鳥公使の立会いのもとで、興宣大院君に対し、国政と改革のすべてを委任することを告げると共に、これらについてはすべて大鳥公使と協議を行うことを要請しました(→関係公文書⑫)。こうして興宣大院君による新政府の成立を果たした日本政府は、牙山に駐屯する清国軍を朝鮮政府に代わって退去させてほしいとの要請を、間もなく興宣大院君から受けます(→関係公文書⑬)。これによって日本は、清国軍を朝鮮から退去させるために日本軍が清国軍を攻撃する(つまり日清間で開戦する)ことの正当な理由を得ることとなりました。

海戦の始まり(豊島沖海戦と高陞号事件)

日本軍はこれまでに既に開戦準備を進めており、海軍では、7月19日に常備艦隊と新たに編制された西海艦隊とをあわせた連合艦隊を編制し、7月22日から23日にかけて佐世保港から朝鮮半島西岸海域に向けて出撃させていました(→関係公文書⑭)

一方で、清国軍もまた日本軍との戦闘に向けて準備を進めており、更なる兵力を朝鮮半島に送り込んでいました。こうした中、7月25日に、牙山に駐留する清国軍部隊への増派となる多数の清国兵士を輸送していたイギリス船籍の商船「高陞号」と、その護衛の軍艦2隻に牙山を出港した1隻を加えた清国艦隊が、豊島付近の海域を航行中に、この海域を目指して進んできていた日本の連合艦隊の一部の艦船と遭遇します。ここで双方の間で砲撃戦が始まり、日清間で最初の海戦が引き起こされました。

→メインページの「明治27年(1894年)7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件)」の項目を見る

清国艦隊の艦船はいずれも撃沈、大破、降伏あるいは逃走という結果に終わりましたが、ここで1つの問題が起きます。それは、この戦闘において、イギリス船籍の「高陞号」が撃沈されたこと(イギリス人船員は日本艦隊によって救出されています)、そしてその撃沈が宣戦布告の前に行われたということでした。この問題は国際的な注目を集めると共に、イギリス世論の強い反感を買うこととなりました。しかし、日本艦隊の行為は戦時における敵対的行動であるため国際法上妥当(当時の国際法上では宣戦布告を戦争開始の条件とする規定はありませんでした)である、という国際法の著名な専門家による見解がイギリス紙『タイムズ』に相次いで掲載されたことなどもあり、やがて事態は沈静化していきました。

陸戦の始まり(成歓の戦い)

日本が清国との開戦の正当な理由としていたのは、牙山に駐屯する清国軍の撃退を朝鮮政府から正式に要請されたということであり、日本軍は牙山の攻撃を第一の目標として戦闘行動を開始しました。6月半ばから仁川に上陸していた混成旅団は、旅団長の大島義昌陸軍少将率いる一部の部隊が日本の公使館や王宮の警護にあたるため漢城内におり、その他は漢城郊外の龍山や、上陸地点の仁川などに駐留していました。7月25日、これらの部隊が牙山攻撃に向けて南下を開始します。

一方の清国軍は、牙山に葉志超提督率いる部隊が駐屯していた他、牙山からやや漢城寄りに位置する成歓にも、全州から移動してきた聶士成提督の部隊が陣を構えていました。牙山に向けて進軍してきた日本軍はやがてこの成歓に到達し、7月29日に、成歓駅付近において日清間で最初の陸戦が起きました。

→メインページの「明治27年(1894年)7月29日 成歓が陥落」の項目を見る

成歓陥落後、日本軍はさらに牙山に向かって進みましたが、葉志超提督の部隊は、この地が山間部であり守りが困難な地形であることからここでの戦闘を避け、既に移動した後でした。

宣戦布告

7月25日の豊島沖海戦と7月29日の成歓の戦いという陸海の初戦を経て、日本では、政府内での検討を経た後、8月1日に、明治天皇により清国に対する宣戦の詔勅が発されました(→関係公文書⑮)。一方の清国でも、同じく8月1日に、光緒帝により日本に対する宣戦布告がなされました(→関係公文書⑯)。これによって、両国が戦争状態にあることが国際的にも認識されることとなりました。なお、当時の日本政府では、日清戦争開始の日時を宣戦布告の行われたこの明治27年(1894年)8月1日ではなく、実際に日清間で戦争状態に入った(日清間で戦闘が開始された)7月25日とすることを決めています(→関係公文書⑰)

また、日本政府内では、宣戦の詔勅を起案する過程において、宣戦の相手国に朝鮮を加える文案も作成されるなど、日清開戦に際しての朝鮮の位置付けについては曖昧な部分がありました。しかし、宣戦布告は清国のみに対するものとなり、8月26日には、日本と朝鮮の間で「大日本大朝鮮両国盟約」が締結されました。この盟約の条文の中では、日本と朝鮮は協力して朝鮮国内から清国軍を撤退させ朝鮮の自主独立を守ること、清国との戦争は日本が行い朝鮮はこれを可能な限り支援することが掲げられています(→関係公文書⑱)。これに基づき、朝鮮政府は日本軍に対して、食糧などの物資のみならず兵力までを提供することとなりました。

関係公文書

関係公文書①
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レファレンスコード: C08040476000 件名: B 清国の出師準備
明治27年(1894年)6月上旬から日清開戦直前にかけての清国軍内部の動きについて日本側が得ていた情報をまとめたものです。2画像目から6月4日についての記述があり、直隷提督の葉志超が統領の聶士成らを率いて朝鮮に向かう準備を進めていることやその武装などについての情報が記されています。

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関係公文書②
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レファレンスコード: C08040626900 件名: 自明治27年6月~至明治27年12月 日記(1)
明治27年(1894年)6月から12月にかけての大本営の日記の一部です。5画像目から6月2日についての記述があり、内閣が朝鮮への派兵を決定したこと、またこの時点で艦船の出撃の準備が進められていることが記されています。

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関係公文書③
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レファレンスコード: C08040460700 件名: 対清韓政略
日清戦争前半期の日本政府の戦争方針に関する主な動きをまとめたものです。2画像目から、朝鮮への出兵を決めた6月2日の閣議決定の内容が記されています。

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関係公文書④
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レファレンスコード: B03030204700 件名: 1 明治27年6月4日から明治27年6月6日
明治27年(1894年)6月初頭の日清間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。7画像目から、日本政府が清国政府に対して6月7日に発することとなる出兵の通知(行文知照)の文案があります。また22画像目から、6月7日に汪鳳藻駐日本清国公使から陸奥宗光外務大臣に送られた、清国政府から日本政府に対する出兵の通知の原文(漢文)とその和訳があります。

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関係公文書⑤
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レファレンスコード: B03030205100 件名: 5 明治27年6月8日から明治27年6月24日
明治27年(1894年)6月中旬の日清間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。25画像目から、6月22日に汪鳳藻駐日本清国公使が陸奥宗光外務大臣に送った、日本政府からの提案に対し日清両国の即時撤兵を主張する清国政府からの回答の原文とその和訳があります。また29画像目から、翌23日に陸奥外務大臣が汪公使に送った、改めて撤兵を拒否することを清国政府に伝える日本政府からの通告文があります。陸奥宗光外務大臣は後にこの文書を「第一次絶交書」と呼びました。

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関係公文書⑥
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レファレンスコード: B03050308400 件名: 4 明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日
明治27年(1894年)7月の朝鮮の内政改革をめぐる日朝間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。11画像目に、明治27年(1894年)6月28日に大鳥圭介駐朝鮮公使が朝鮮の督弁交渉通商事務(外務大臣に相当します)である趙秉稷に送った文書の内容が示されており、この中で、朝鮮が清国の属国であるか否かについての朝鮮政府の認識を翌29日までに回答するようにとの要求が述べられています。また12画像目から、6月30日に趙督弁交渉通商事務が大鳥公使に送った、日本政府の問いに対する朝鮮政府の回答文で、朝鮮が自主国として日本や清国と関係を結んできたという見解が示されています。

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関係公文書⑦
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レファレンスコード: B03030205400 件名: 8 明治27年6月29日から明治27年7月2日
明治27年(1894年)6月末から7月初頭にかけての日清間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。1画像目から、明治27年(1894年)6月30日にミハイル・ヒトロヴォ駐日本ロシア公使から陸奥宗光外務大臣に手交された、日本軍の朝鮮からの撤兵を要請するロシア政府の公文の文面(フランス語)が記されています。4画像目にその和訳があります。また28画像目から、7月1日に閣議決定された、ロシア政府に対する日本政府からの返答の内容が記されています。

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関係公文書⑧
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レファレンスコード: B03030206700 件名: 7 明治27年7月28日から明治27年8月1日
明治27年(1894年)7月末から8月初頭にかけての日清間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。30画像目から、7月9日の午後に、日本の小村寿太郎駐清国臨時代理公使と清国の慶親王や総署王大臣らとの間で行われた面談でのやり取りの記録があり、日清間の武力衝突を避けるためにも早急に両国が撤兵すべきであるという清国側の主張が記されています。また42画像目に、7月14日に小村臨時代理公使が慶親王と総署王大臣に送った、日本政府の清国政府に対する非難文があります。陸奥宗光外務大臣は、後にこの文書を「第二次絶交書」と呼びました。

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関係公文書⑨
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レファレンスコード: B03050308300 件名: 3 明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日
明治27年(1894年)7月上旬から中旬にかけての朝鮮の内政改革をめぐる日朝間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。23画像目左から、7月3日に日本政府が朝鮮政府に「内政改革方案綱領」を提示した際の文面があります。また26画像目左から、「内政改革方案綱目」つまり綱領の細目があります。

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関係公文書⑩
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レファレンスコード: B03050308400 件名: 4 明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日
明治27年(1894年)7月の朝鮮の内政改革をめぐる日朝間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。49画像目から、明治27年(1894年)7月18日に大鳥圭介駐朝鮮公使が本国の陸奥宗光外務大臣に送った、日本政府が提示した内政改革案に対する朝鮮政府の回答についての報告があります。

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関係公文書⑪
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レファレンスコード: B03050308500 件名: 5 明治27年7月18日から明治27年7月30日
明治27年(1894年)7月下旬の朝鮮の内政改革をめぐる日朝間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。42画像目から45画像目と49画像目に、7月19日と20日に大鳥圭介駐朝鮮公使が朝鮮の督弁交渉通商事務(外務大臣に相当します)である趙秉稷に送った文書の内容があり、日本政府から朝鮮政府に対する要求が示されています。また46画像目から47画像目に、日本政府の要求に対する朝鮮政府の回答文があります。

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関係公文書⑫
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レファレンスコード: C06060811000 件名: 7月23日 大鳥公使発 陸奥大臣宛 発砲後国王使臣を我公使に送り国政委任の件
明治27年(1894年)7月23日の夕刻に、大鳥圭介駐朝鮮公使が本国の陸奥宗光外務大臣に送った電文です。この日の王宮での戦闘後、朝鮮の督弁交渉通商事務(外務大臣に相当します)が公使館の大鳥公使のもとを訪れ宮中への参内を要請したこと、国王高宗が大鳥公使の前で、興宣大院君に対して国政と改革のすべてを委任することを告げると共に、これらについてすべて大鳥公使と協議を行うことを要請したことなどが伝えられています。

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関係公文書⑬
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レファレンスコード: B03050308500 件名: 5 明治27年7月18日から明治27年7月30日
明治27年(1894年)7月下旬の朝鮮の内政改革をめぐる日朝間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。19画像目に、7月25日に大鳥圭介駐朝鮮公使が本国の陸奥宗光外務大臣に送った電文があり、末尾では、朝鮮政府に代わって牙山に駐屯する清国軍を撤退させてほしいとの要請を朝鮮政府から受けたことが伝えられています。

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関係公文書⑭
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レファレンスコード: C08040479900 件名: 連合艦隊出征第1報告
明治27年(1894年)7月の連合艦隊の出撃報告です。1画像目に、7月19日付で本国の大本営参謀総長から伊東祐亨海軍中将に対して発令された、連合艦隊を率い、朝鮮西岸海域の制海権を得た上で豊島あるいは安眠島付近の拠点を占領すること、朝鮮で清国軍が増派されることがあれば直ちに清国艦隊や輸送船を攻撃すること、という命令があります。6画像目から連合艦隊を構成する各部隊の初期の編制が記され、10画像目からは各部隊の佐世保出港からの行動計画が記されています。

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関係公文書⑮
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レファレンスコード: A03020165600 件名: 御署名原本・明治二十七年・詔勅八月一日・清国ニ対シ宣戦
清国に対する宣戦の詔勅を公布(国民に知らしめること)した際の御署名原本です。

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関係公文書⑯
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レファレンスコード: B07090537400 件名: 日清両国宣戦ノ詔勅公布一件
日清双方の宣戦布告に際しての各国との連絡に関する文書のまとめです。9画像目に、清国による日本に対する宣戦布告の内容が記されています。

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関係公文書⑰
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レファレンスコード: C06060168000 件名: 戦時と称すへき時期の件
日本政府内で行われた、いつから戦争が始まったと見なすべきかについての議論の経緯を示した文書です。3画像目に、明治27年(1894年)8月25日の閣議において「実際戦の成立したる日と心得べし」と決定されたことが記され、4画像目には、具体的に豊島沖海戦の日である7月25日を「戦時の始期と為す儀と心得べき旨」指示することが9月10日に決議されたことが記されています。

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関係公文書⑱
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レファレンスコード: B13091011800 件名: 大日本大朝鮮両国盟約
明治27年(1894年)8月26日に日本と朝鮮との間で調印された、大日本大朝鮮両国盟約の条約書本体(調印書)です。

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