1. 発端と背景 : 朝鮮の混乱と日清両国の動き~甲午農民戦争
19世紀末の東アジア―日本、清国、朝鮮
19世紀半ばにアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアといった欧米の国々が次々に東アジア地域へと接近して以降、東アジアの国々の在り方は、欧米各国とのかかわり方によって大きく左右されるようになっていきました。
アメリカによる開国要求の後、江戸幕府の崩壊を招き、明治維新を経験することとなった日本は、それ以来近代国家の建設を推し進めましたが、その中で、幕末の開国期に欧米各国との間で締結した不平等条約を改正し(治外法権の撤廃、関税自主権の回復)、国際社会でそれらの国々と対等な立場を得ることはもっとも重要な課題の1つとなっていました。このため明治政府は、明治4年(1871年)から明治6年(1873年)にかけて岩倉具視率いる使節団を派遣したのをはじめとして、欧米各国との間で外交交渉を重ねていきました。そして、1890年代に入ると、ロシアの勢力拡大を警戒したイギリスとの間で条約改正に向けた動きが加速しました。このように、国家間の関係が条約によって明確に取り決められるという近代的な外交体制の下で各国との関係が結び直されていく中で、日本はもともとつながりの深かった朝鮮との関係をも見直そうと考えるようになり、その結果、朝鮮に対する影響力を強めていくことになります。
朝鮮(李氏朝鮮)もまた、19世紀半ば以降、日本と同様に欧米各国から開国を要求され、それらの国々といかなるかたちで関係を結ぶか、という困難な課題に直面していました。しかし、朝鮮にとっては特に、長らく維持してきた清国との「属国(朝鮮)―宗主国(清国)」という宗属関係(冊封体制)が大きな意味を持ちました。この頃の清国は、アヘン戦争(1840年~1842年)やアロー戦争(1856年~1860年)でイギリスやフランスからの攻撃を受け、その後もロシアへの領土割譲などを経験する一方で、19世紀に入るころから、白蓮教徒の乱(1796年~1804年)、太平天国の乱(1851年~1864年)、捻軍の蜂起(1853年~1868年)や回族の蜂起(1853年~1873年)などの相次ぐ民衆反乱によって国内の混乱にも悩まされていました。こうした清国の状況をうけて、朝鮮政府は鎖国政策を強め、キリスト教を弾圧する(1866年)とともに、接近するフランスやアメリカに対しては、丙寅洋擾(1866年)、ジェネラル・シャーマン号事件(1866年)、辛未洋擾(1871年)などで武力によって激しく抵抗しました。しかし、日本との軍事衝突である江華島事件(もしくは雲揚号事件)(1875年)(→関係公文書①)の結果、日本と日朝修好条規(1876年2月27日)(→関係公文書②)を結んだのをはじめとして、欧米各国との間でも相次いで不平等条約を締結することとなり、朝鮮は開国に至りました。
朝鮮王朝の混乱
このような緊迫した状況の中で、朝鮮の朝廷では、独立国として自ら近代化を進めることにより諸外国に劣らない力を付けていくべきだと考える開化派(もしくは独立党)と、あくまで清国の庇護によって国を守っていくべきだと考える守旧派(もしくは事大党)との間で激しい対立が起きていました。
開化派の中心だったのは、当時実権を握っていた、国王高宗の妃である閔妃の一族でした。彼らは朝鮮に近代化の道を進ませようと働きかけてくる日本との協調を重視して、日本から軍事顧問を招くなどして特に軍隊の近代化(新式軍隊の設立)に力を入れていました。しかし、こうした開化派の動きと日本の姿勢に不満を持つ旧軍と民衆によって、開化派の多くの要人たちが殺害され、日本公使館が襲撃され公使館員の殺害と花房義質公使の追放が行われるという壬午事変(壬午軍乱)(1882年7月23日)(→関係公文書③)が起きると、朝廷の実権は守旧派の中心であった興宣大院君(高宗の実父)へと移りました。これに対し日本政府は、この事件の責任を朝鮮政府に問うことと、朝鮮にいる日本人を保護することを目的として掲げながら、朝鮮に軍隊を送り込みました(→関係公文書④)。
このような日本の動きに対して警戒を強めた清国は、事変の鎮圧や日本公使の護衛などを名目として朝鮮への出兵を行うと、事変の責任を追及して興宣大院君を拘束しました。こうして清国の軍事力が大きな影響力を示した一方で、日本が済物浦条約(1882年8月30日)(→関係公文書⑤)によって日本軍の駐留を朝鮮政府に認めさせたことにより、首都漢城には日清両軍が駐留する事態となり、朝鮮における日清間の緊張が高まりました。
興宣大院君が清国で幽閉されると、壬午事変で難を逃れていた閔妃は再び政権を担い、清国への依存を強める政策へと方針を転換させました。これに危機感を強めた開化派の金玉均らは、日本の支援を期待して甲申政変(1884年12月4日)(→関係公文書⑥)を起こし、高宗の承認も得て政権の奪取をはかりましたが、即座に清国軍が新政府を攻撃して政変を鎮圧しました。この時、国王の警護を名目として王宮に配置されていた日本軍と、王宮に攻め込んだ清国軍との間で戦闘が起こり、また兵士以外の多くの日本人も清国軍の攻撃による被害を受けたことから、日清間での戦争に至る危険性が高まりましたが、両国は天津条約(1885年4月18日)(→関係公文書⑦)によって、朝鮮からの双方の撤兵と、将来的に朝鮮にやむを得ず出兵を行う際には相互に通知し合うことなどを取り決めました。
こうして日清開戦は回避されたものの、以降も朝鮮の朝廷では政治的混乱が治まらず、これをめぐって両国の警戒は続いていくことになります。
甲午農民戦争の勃発
甲申政変鎮圧後の朝鮮では、清国による指導のもとで閔氏政権による国の立て直しが進められていきました。その一方で、国王高宗は独立国家として各国との関係を築こうとするようになり、ロシアへの接近をはかったほか、欧米各国に公使を派遣するなどしました。このような動きに対して警戒を強めた清国は、興宣大院君を復帰させ、また、朝鮮の外交に対する監督を厳しく行いました。
こうして清国の影響力の強化と欧米各国との交流とが並行する中で、朝鮮ではさまざまな近代化政策が進められることとなりましたが、1890年代に入るころには次第に財政が厳しくなっていきました。特に農民たちは、増税や役人の不正の蔓延、そして日本人商人による穀物の買い占めなどにより、貧困に苦しめられるようになっていきました。
そして、1894年の春頃には各地の民衆が地方役人に対する不満などから暴動を起こしつつある中(→関係公文書⑧)、全羅道の古阜郡の農民たちが起こした武装蜂起が拡大し、甲午農民戦争が勃発します。この蜂起に参加した人々は、指導者をはじめその多くが、当時多数の農民が信仰していたといわれる民衆宗教の「東学」の信者だったため、蜂起した農民軍は「東学党」とも呼ばれました。人間を平等とし封建的な階級社会を否定する「東学」の思想を掲げ、日本人の追放と閔妃一族の政権の打倒を目指したこの蜂起はたちまち全国に拡大して勢力を強め、鎮圧にかかった朝鮮政府軍を撃破しながら首都漢城を目指して北上していきました。
5月末に農民軍が全羅道の中心地である全州を占領する頃には(→関係公文書⑨)、朝鮮政府内では、蜂起を鎮圧するために清国に軍隊の出動を要請するか否かの議論が起こっていました。そして同じ頃、日本政府内でもまた、清国の朝鮮出兵を警戒し、これに対抗するために日本も朝鮮に軍隊を派遣すべきであるとの意見が強まっていました。こうして、天津条約以来の10年間近くにわたり、朝鮮の情勢をめぐる互いの動きに注意を払い続けてきた日本と清国の間で、再び急激に緊張が高まったのです。