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終戦直後から、戦災復興のための様々な法令が制定され、戦災復興院や建設院といった特別な機関が設置されるなどして、日本の各都市の復興が進められました。
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年1月から8月にかけて、連合国軍による空襲が激化し、東京・横浜・大阪・名古屋・神戸などの大都市、および地方都市の多くが罹災し、その数は37府県・215都市に上りました。
国立公文書館デジタルアーカイブでは、日本敗戦後に第一復員省資料課が作成した「全国主要都市戦災概況図」をデジタル画像で公開しています。これらの「戦災概況図」からは、罹災の範囲がいかに広大であったかが分かります。
また、空襲で焼失した建物のほかに、建物疎開と称される措置によって破壊または撤去された建物もありました。
建物疎開事業は、内務省防空総本部が「防空法」(1937(昭和12)年4月5日法律第47号、Ref.A0302074400)に基づき、市街地の火災延焼防止のために実施した措置でしたが、終戦までに61万戸の家屋が破壊ないしは撤去されたと言われています。
空襲や建物疎開により罹災した地域の面積は総計で約1億9500万坪、罹災人口は約970万人、罹災戸数は約230万戸に上りました。これは、日本国内総戸数の2割以上、総人口の1割強が罹災したことを意味し、その被害の甚大さが分かります。
戦災復興の最初の措置としては、1945年9月3日に厚生大臣より建議され、翌日の4日に閣議決定された「罹災都市応急簡易住宅建設ニ関スル件」(Ref.:A14101352400)があります。
「罹災都市応急簡易住宅建設ニ関スル件」では、12月の寒冷期の前に30万戸の簡易住宅を建設し、罹災して住居を失った人々に供給することが目標とされました。
その建設には、戦時中に建設業全般の統制団体であった戦時建設団も協力することが明記されていました。
同年11月12日には「住宅緊急措置令」(勅令第641号、(Ref.:A04017774900)が公布され、現在使用されていないか、あるいは使用に余裕があると判断された建物につき、地方長官の権限によって戦災者ないしは外地からの引揚者の住宅として指定することができるようになりました。
しかし、建築資材不足・燃料不足による輸送の停滞・労働力不足などの理由により、新たな建物の建造や既存建築物の修復は進展せず、同年12月末までの供給見込みはわずか8%に止まるなど戦災者等への住宅供給は難航し、速やかな戦災復興が希求される状況となっていました。
戦災復興については、内務省国土局が中心となって計画立案を進めていました。
戦時中、都市計画行政は、一般都市計画を内務省国土局が担当し、防空都市計画を前出の防空総本部が担当することとなっていましたが、太平洋戦争末期には空襲が激化する中、防空行政のみの対応に終始する状況となっていました。
終戦後、防空総本部は廃止され、内務省国土局が中心となって戦災復興に当たることとなりましたが、同局では戦時中から破壊された都市の復興計画を検討しており、1945年9月には原案がまとまっていたと言われています。
また、内務省国土局は迅速な戦災復興実現のためには、別途中央の機構を整備する必要があると考えており、同局の構想に基づき、戦災復興行政の中央機関として1945年11月5日に戦災復興院が設置されました。
戦災復興院は内閣総理大臣の直属機関として設置され、主な業務として、戦災地における市街地計画、戦災地における住宅の建設および供給、戦災地の土地物件の処理に関する事務などがありました。
戦災復興院の初代総裁には、阪急グループの総帥であり、近衛内閣で商工大臣を務めた経験もある小林一三が就任しました。
その際、小林は国務大臣として総裁に就任しており、他の大臣と同等の地位が与えられていました。
その他、次長・局長・課長級には、松村光磨、重田忠保、大橋武夫ら内務省国土局出身の官僚が就任しました。
小林一三は1946年3月9日に辞任したため、総裁心得の重田忠保を挟んで同年同月30日より土木技術者の阿部美樹志が総裁の職に就き、以後、彼ら内務官僚や土木技術者が中心となって戦災復興事業が進められることとなりました。
戦災復興行政について戦災復興院を中心に検討がなされた結果、1945年12月30日に「戦災地復興計画基本方針」(Ref.:A14101352700)が閣議決定され、戦災復興事業の方針が示されました。
その後、戦災復興方針について検討が進められた結果、1946(昭和21)年9月10日に「特別都市計画法」(法律第19号、(Ref.:A04017790700)が制定され、戦災地復興計画の土地整理事業として土地区画整理方式が実施されることとなりました。
土地区画整理方式とは、地権者から所有地の一部を公共用地として有償で提供してもらう方式を意味します。
同年10月9日には「特別都市計画法」に基づき、内閣告示第30号(Ref.:A13110748000)をもって東京を含む115都市が戦災復興の対象として指定されました。
復興事業自体は国が直接施行するのではなく、地方自治体が行うこととされ、そのための経費の9割を国庫負担とすることが決定されました。
画像4 『復興情報』昭和21年8月号(Ref.A03025367800)
ちなみに、戦災復興院は設立後間もない1945年12月から『復興情報』という月刊誌を発行し、戦災復興に関する計画案や方針などを随時人々に表明していました。『復興情報』は2号分のみですが、アジ歴で公開しています(Ref.:A03025367800、A03025367900)。
『復興情報』は1947(昭和22)年1月から『新都市』と改称され、発行の主体も都市計画協会へと替わりますが、1960(昭和35)年12月まで発行が続けられました。
戦災復興事業は戦後のインフレに加え1947年から1950(昭和25)年にかけて頻発した台風・地震など自然災害の影響、さらにはドッジラインに象徴されるGHQからの予算削減要求により日本政府の財政が逼迫する中で、復興事業のための国庫負担は1946年には8割、1949(昭和24)年には5割に削減されました。
なお、戦災復興院には1946年3月に特別建設部(同年11月に特別建設局へ改編)が設置され、「連合国最高司令官の要求に係る兵舎、宿舎その他の建造物及び設備の営繕並びに備品の調達に関する事務」を管掌していましたが、この点からも占領下にある日本の状況が垣間見えます(Ref.:A04017849100)。その後、特別建設局の業務は1947年5月に特別調達庁に移管されました。
復興事業の指導的役割を担うべき中央機関は、内務省の解体とともに戦災復興院が廃止となり、1947年12月26日に内務省国土局と合併する形で建設院が設置され、翌年の1948(昭和23)年7月10日には建設院も改編され建設省に格上げとなるなど、いくらかの変遷を経ながら、戦災復興事業はその間も続けられ、1960年頃までには全国における戦災復興事業が完遂したと言われています。
かつて戦災により破壊された都市の面影は、現在ではもちろん目にすることはなくなっていますが、それら都市の姿は、戦後の復興計画に基づいて形作られているのです。