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はい、本当です。物資が不足していた太平洋戦争期でも、スイーツは軍人に優先的に提供されていました。
1937年(昭和12年)に盧溝橋事件による日中戦争開始をきっかけに日本は経済を本格的に引き締め始め、物の生産、流通、消費などの経済活動において、軍による需要が優先されるようになりました。
また、時が経つにつれて、戦争が日本にとって不利になってきたことにより、物が不足するようになってきました。
この動きにスイーツも影響を受けました。
画像1 消費規正に関する件(Ref.A03023592900)
政府は、軍による利用を優先させるために、物の生産、流通、消費などを制限する政策を相次いで打ち出しました。
盧溝橋事件と同じ年の1937年、輸出入品等臨時措置法が施行され、輸出入の制限を行い、それを通じて物の生産、流通、消費などを制限する幅広い権限が政府に与えられました。
その翌年である1938年(昭和13年)、国家総動員法(Ref.A03022164500)が施行され、人、物を、戦争遂行のために総動員することを目的に、物の流れ、貿易、価格など、経済のあらゆる分野をコントロールする権限を政府が持つようになりました。
菓子の主原料である砂糖と小麦を例にとると、1937年10月に設置され、経済分野のコントロールに中心的な役割を果たしてきた企画院の主導の下、1940年(昭和15年)5月になされた閣議決定「消費規正に関する件」(Ref.A03023592900)に基づき、翌月から配給制が導入されました。
砂糖については、これらの規制のほかにも、生産や輸送を巡る状況は悪化していきました。
第一に、1941年(昭和16年)の内地(現在の日本列島)におけるコメの凶作を受け、内地へのコメ供給確保を目的に、砂糖の主産地の1つである台湾でコメの生産増加に力を入れるようになりました。
第二に、戦争に伴う船舶の不足から、砂糖の主な生産地域であった台湾及び南方地域(主にフィリピンとジャワ)への肥料や砂糖生産に必要な資材の移入、同地域からの砂糖の輸送が困難になりました。
その具体的な理由としては、1940年以降の海運業に対する規制強化、軍関係による船舶徴用の急増、太平洋戦争時の1942年(昭和17年)6月におけるミッドウェー海戦以降のアメリカ海軍の反撃にともなう船舶の被害の増加があります。
第三に、砂糖の用途を食用から軍用機の燃料の原料へ切り替える動きが政府主導で進められ、砂糖生産会社も軍から求められて、砂糖生産から軍用機の燃料の生産に相次いで転換しました。
以上のような事情から、内地において砂糖が手に入りにくくなりました。
1940年から行われていた加工用の砂糖の内地での配給は、1944年(昭和19年)2月に止まり、同年12月には乳幼児用を除く家庭用の砂糖の配給が止まりました。
さらに、多くの製菓業者が、菓子を作る道具を軍需用に供出させられ、木型は燃料に使われたため、菓子生産が不可能となり、製菓業者が生産する物が、菓子類から、軍用食糧や潤滑油など、軍に必要な物品に転換しました。
これにより、一般国民は菓子を口にすることができなくなりました。
一方で、軍人については、木や木くずをお菓子の原料としていたほど食糧事情がよくなかった北方の部隊(Ref.C01007863700)があったものの、一部の部隊に菓子が出回っていたことが、陣中日記(Ref.C14110701700)、部隊への供給明細(Ref.C13031961100)及び引き揚げ兵士受け入れ要領(Ref.C01007863700)でも確認できます。
画像2 記帳標目 糧秣受払簿(Ⅱ)昭和20年度(Ref.C13031961100)
画像3 重巡洋艦高雄の艦内酒保
出典:藤田昌雄『写真で見る海軍糧食史』潮書房光人社、2014年
嗜好品である菓子が兵士に対して士気を鼓舞する物として必要であるとの考えから(この考えを最初に唱えたのが、1928年(昭和3年)1月に食糧補給用の給糧艦「間宮」の艦長が海軍大臣に宛てた報告書(Ref.C04015659200)です。)軍人には優先的に菓子が提供されました。
具体的な提供経路しては、第一に、軍指定の製菓会社が菓子を製造し、軍に納入していたこと、外地(現在の日本国外)の占領地において軍の命令を受けて製菓会社が菓子生産工場を稼働させ、軍に納品していたこと(Ref.C12070588000)、「間宮」が羊羹や饅頭、アイスクリームなどの菓子を製造する機械を装備して製造し、軍の部隊に提供していたこと(Ref.C05022843100、C05034267700)があります。
画像4 第24類 附録/艦船部隊酒保納入承認一覧表(Ref.C12070588000)
画像5 給糧艦間宮
出典:藤田昌雄『写真で見る海軍糧食史』潮書房光人社、2014年
戦後もしばらくは原材料の入手が困難な状況が続いていたため、砂糖、小麦などに対する統制がしばらく続いていました。
その中で、菓子会社による菓子の生産も、官公庁や地方公共団体からの委託を受けて、石炭産業等の重要産業労務者用、学童用、育児用に限られていました。
しかし、1949年(昭和24年)12月の「外国為替および外国貿易管理法」(Ref.A13111259300)の施行、1952年(昭和27年)4月、6月における砂糖、小麦粉に対する統制が解除になったことに伴い、菓子の主原料である砂糖と小麦粉の流通が緩和され、菓子会社による一般向け菓子の製造が本格化しました。