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中央政府から派遣されていました。
現在、都道府県知事は、選挙によって決められています。
では、都道府県の知事はいつから選挙で選ばれるようになったのでしょうか。
実は、地方自治法が成立した1947年からでした。
それ以前は、内務省を中心として、中央官庁から派遣された人物が知事に就任していました。
そもそも、都道府県はいつから成立したのでしょうか。
江戸時代は、幕府の直轄領である幕領をはじめとして大名領・旗本領・寺社領・禁裏御領といった領地が存在し、それぞれの領主が統治していました。
明治維新を迎え、1871(明治4)年に廃藩置県となると、藩が廃止され多くの府県が成立しました。
「道」は1886(明治19)年に北海道が置かれ、「都」は1943(昭和18)年に東京都が誕生して、現在の都道府県という行政区分が揃いました(東京都の誕生については、「Q&A東京都はいつからあるの?」をご参照ください)。
明治政府は、「富国強兵」をスローガンに欧米列強に肩を並べるため、経済発展と軍事力強化を目指しました。
それゆえに、中央集権的な強力な国家体制の整備を推し進めました。
国内の行政は、内務省という中央省庁が中心となりました。
内務省は1873(明治6)年に成立した組織で、戦後に解体されました。
内務省の成立当初から、府知事・県令(1886年までは県知事ではなかった)の人事権は内務省にありました。
実際に派遣される知事は、どのような人物だったのでしょうか。
明治の終わり頃までは、府知事・県令の多くが藩閥(薩摩・長州)出身者で占められました。
1887年に「文官試験試補及見習規則」(Ref.A15111276900)が発令されると、官僚の任用に各種の試験に合格していることが要件として加わります。
その結果、徐々に高等試験を合格したエリート官僚が知事になりました(試験制度の詳細は、「Q&A公務員試験及び外交官試験はいつからはじまったの?」をご参照ください)。
知事は勅任官と呼ばれる高いランクの官僚で、各省の次官・局長などが同じように勅任官でした。
統計によると、エリート官僚である高等試験合格者でも、勅任官まで昇進するのは約50%でした。
旧内務省出身者へのインタビューの中には、「知事になりたかった」という理由で内務官僚となった者も多かったようです。
戦前の知事は一貫して内務省に人事権があり、主に内務官僚が派遣されていました。
しかし、政党の力が強くなると、知事の任用のあり方にも変化が生じました。
日露戦争後の桂園時代(桂太郎と西園寺公望が交互に首相に任命された時期)になると、行政事務の範囲内で特定の政党を支持して行動する内務官僚が、見返りとして知事に任命されるケースが出てきました。
それゆえに、彼らは支持政党が組閣する内閣が総辞職すれば、辞表を提出しました。
内閣が変わり知事の大異動がおこなわれたため、1890(明治23)年から1947(昭和22)年までの歴代知事の在職期間は、6割以上が2年に満たない状況でした。
大正デモクラシーと呼ばれる大正期に高揚した民主主義・自由主義的な風潮を背景に政党が中心となり内閣を組織するようになると(いわゆる「憲政の常道」1924年~1932年)、知事を選挙で決めようとする動きも出てきました。
これは、地方分権を進めることを目的としていました。
しかし、政府内での審議は知事の権限や、府県庁がおこなう行政の範囲などの問題を解決できなかったため、棚上げになってしまいました。
戦争により、地方自治体の枠組みにも変化が生じました。
1943年には、全国を地域ごとに分け、知事を主な構成員とした地方行政協議会(Ref.A14101100900)が置かれました。
戦況の悪化により、本土決戦が現実化し国土分断の危機が高まると、地方行政協議会の権限が強化され、全国8ブロックに地方総監府が設置(1945年6月、Ref.A14101301100)されました。
1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えると、占領軍が地方制度改革をおこないました。
占領軍は、内務省を軍国主義の牙城とみなし、同省を解体させようとしました。
内務省も制度改革が必要であることを認識しており、戦後の早い段階から憲法改正作業に先立って知事の公選する方針を打ち立てました。
占領軍との折衝を繰り返し、1946年9月27日に、東京都制・府県制・市町村制のそれぞれを一部改正する法律が公布されます。
翌47年に地方自治法が成立し、都道府県知事は公選となりました。