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はい、必要でした。通帳を持っていかないと、お米を買えない時代がありました。
通帳とは、売買や預金をする際に、金額や数量などを記載する帳面のことを言います。
銀行の預金通帳を思い浮かべる方が多いでしょうが、米を買う際に必要だった通帳は「米穀通帳」と呼ばれ、食べ物や物資が不足していた戦時体制下に考案されました。
1937(昭和12)年の日中戦争勃発以降、働き手の男性が戦争へ行くため、農作物の生産量は減っていきました。
さらに、米の国内消費量のおよそ4分の1を朝鮮や台湾からの移入に頼っていた日本は、輸送の問題に直面します。
船舶やその燃料は軍用が優先され、国民生活は米不足になっていきました。
1939(昭和14)年4月、「米穀配給統制法」(Ref.A14100753400)が公布されると、米穀を扱う商いは許可制となり、取引所が廃止されました。
秋以降から節米運動が奨励され、11月には米の精白の割合を制限する「米穀搗精等制限令」(Ref.A03022413600)が施行されました。
1940(昭和15)年10月24日、農林省令「米穀管理規則」の公布により、生産者である農家に対して、一定数量の自家保有米を除き、残る全ての米を決められた値段で国に売る義務が課されるようになりました。
これを“米の供出”と言います。
1941(昭和16)年1月には、農林省の外局として戦時の食糧統制を担う食糧管理局が発足します。
3月になると、主食や燃料などを配給で割り当てる「生活必需物資統制令」(Ref.A02030326800)が国家総動員法に基づく勅令として発せられました。
これにより、4月1日から東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の6大都市で米などの穀物は配給通帳制になります。
この年、米だけでなく、酒や卵、魚類なども配給制となり、消費が制限されました。
1942(昭和17)年2月21日には、「食糧管理法」(Ref.A14101042500)が制定されます。この法律は、既存の食糧関係の法規を整理・統合し、主要食糧の国家管理を強化しようとするものでした。
この法律のもとに、米穀の配給通帳制度は整備され、全国で施行されるようになりました。
画像1 『写真週報』1941年3月26日、161号
「お米屋さんの切替へ 切符制はいつでも来い」
(Ref.A06031075600、5画像目)
1世帯に1通発給されたこの通帳には、1日当たりの配給量が記入されていました。
指定された配給日に通帳を持って配給所へ行くと、通帳に印鑑を押してもらうのと引き換えに、その世帯の1日の配給量に配給日数をかけた量のお米を購入することができました。
配給量は年齢や職業によって異なり、1941(昭和16)年当時、1歳~5歳が120グラム、6歳から10歳までは200グラム、11歳から60歳までは330グラム、61歳以上は300グラムに定められていました。
重労働とみなされる職業(農夫、漁夫、鉱物採取者、大工など)に従事している人には、配給量がやや増やされました。
この配給基準は、当時の1人当たりの平均消費量と比べて4分の3程度の量でした。
米の配給は、初めは商店で実施されていましたが、やがて町内会や隣組など地域ごとに特定の場所で配給されるようになりました。
配給日には配給所は長蛇の列となり、何時間もかけて人々は並びました。
戦争が長引くと、配給の米は玄米へ、あるいは乾麺などの代用品に変わっていきます。
配給そのものが遅れたり滞ったりすることも日常茶飯事となっていきました。
そのため、人々は食べ物を生産者である農家に直接買いに行ったり、闇と呼ばれる非合法のルートで軍からの流用品などを入手して、不足分を補おうとしました。
闇で購入する米の価格は配給米の何倍もしましたが、それなしで暮らすことなど出来なかったと言われています。
1945(昭和20)年8月に戦争は終結しましたが、食糧難はさらに深刻化しました。
供出米が激減し、需用量が供給量を大幅に上回ったため、戦時中以上に大変な米不足に見舞われたのです。
闇米の価格の公定価格に対する倍率は1945(昭和20)年10月が最大で、49倍にまで跳ね上がりました。
これらの不足は、麦・馬鈴薯などの代替食糧を中心に、輸入食糧で補われました。
しかし、輸入量も十分ではありませんでした。
世界的にも食糧は不足しており、食糧の国際的割当統制が敷かれていました。
加えて輸入に必要な外貨が不足していたため、輸入購入費はアメリカの対日支援基金でまかなわれ、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が定めた国民1人1日当たり1250カロリー分の範囲内で食糧が輸入されました。
1948(昭和23)年度を転機に国内の食糧生産高が回復し、世界の食糧生産も好転して食糧輸入が拡大すると、食糧危機は徐々に解消に向かっていきます。
1949(昭和24)年からは、GHQの占領政策の転換によって次々と食糧統制の緩和ないし撤廃がなされていきました。
米については、何度も議論されつつも、管理制度は継続されました。
1969(昭和44)年に政府を通さずに流通する米を一部認めた自主流通制度が発足すると、やがて米穀通帳制度は形骸化していきます。
1982 (昭和57)年1月、改正食糧管理法が施行されると、通常時の厳格な配給制度が廃止され、自主流通制度の法定化がなされました。
この時、米穀通帳の発行は廃止となり、40年間に渡る長い歴史に幕を閉じました。