トップページ > テーマ別検索「公文書に見る戦時と戦後」 > コラムNo.2【 外務省の機能と機構 】
戦争と占領――この2つの特異な時代環境の中で、日本の外交権はどのように運用されていたのでしょうか?
ここでは主に、外務省の機構の変遷を基にたどってみたいと思います。
まず戦争下における外交的機能ですが、一般的には陸海軍による軍事的展開の方が戦局における優先度が高く、戦時外交が影響を及ぼしうる余地は極めて限られたものとなったと言われています。
当時日本が外交関係を維持または樹立していた国々は、アジアでは満州国・中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)・タイ、枢軸国であるドイツ・イタリア(後にイタリアは降伏後に対日宣戦を行います)、またドイツの同盟国だったハンガリー・ルーマニア・スロヴァキア・ブルガリア・クロアチア、そして戦時中に独立したビルマ国・フィリピンなどでした(1)。
その他中立国として、スイス・スウェーデン・ポルトガル・バチカン・アイレ(アイルランド)・アフガニスタンの6カ国とも外交関係を継続し、ソ連も対日宣戦前までは中立国として外交関係がありました。
そしてそれ以外の国々とは、国交断絶または宣戦布告による戦争状態にあり、直接的な外交的接触は閉ざされていました。
これらの国々では、国交断絶あるいは宣戦により在外公館は閉鎖され、外交官は交換船により引き上げてきました。
そのため、英米などこれらの国々に対しては、中立国であるスイスやスウェーデンなどが日本の委託を受けて居留民や財産などの保護に努める役割を果たしました(2)。
またこのような外交的空間の縮減のみならず、外務省の持つ外交政策上の権限自体も徐々に分轄されてゆきました。
まず1938年12月15日には中国における日本の占領地行政を中心的に担当する興亜院が内閣に創設されたことに伴い(3)、外務省文化事業部の対中文化事業関係の業務は興亜院に移されました(4)。
また1940年12月5日には政府の対外情報活動一元化のために、外務省情報部は新設された内閣情報局に移管されました(1)。
さらに1942年11月1日の大東亜省創設においては、朝鮮・台湾・樺太を除くアジア地域の占領地域行政について、「純外交」に関するものは外務省の管轄とされましたが、それ以外の業務は大東亜省が管轄することとなりました(6)。
これを受けて、外務省東亜局・南洋局は大東亜省に移され、それまでの6局体制から4局体制へと外務省の機構は大幅に縮小されました(7)。
1940年10月当時の外務省職員数は高等官607名・判任官918名でしたが、1943年8月には高等官377名・判任官389名と、ほぼ半数にまで減りました。
その後も行政整理の一環として課の統廃合や減員が行われ、外務省の機構は縮小し人員も削減されることとなります。
ただしこのような環境の中でも、外務省は戦時外交を展開してゆきました。
特にアジア太平洋地域においては、インドネシアやフィリピンなどの占領地独立問題や、1943年11月大東亜会議開催に向けた政府内及び対外調整、さらに日華同盟条約(1943年10月30日)(8)・日緬同盟条約(1943年8月1日)(9)・日比同盟条約(1943年10月14日)(10)の締結など、重光葵外相の強力なイニシアチブの下で一定の役割を果たしたと言われています。
また戦争末期においては、ソ連を仲介して終戦に向けて対ソ終戦工作を展開するなど、限られた環境の中でも外交活動を展開してきました。
ただしこれらの戦時外交は、特に重要な事項は大本営政府連絡会議や最高戦争指導会議などで協議される形で、一般的に軍部の意向が入り込むことは避けられないものとなっていました。
このような中で、対ソ終戦工作も最終的に実を結ぶことなく、日本は終戦を迎えます。
戦後になると、日本は連合国による占領統治下に置かれ、外交権も一般的に制約を受けることとなりました。
日本は前述のとおり、戦時中より中立国(6カ国:スイス・スウェーデン・ポルトガル・バチカン・アイレ(アイルランド)・アフガニスタン)と外交関係があり、日本としては終戦後もこれらの国々との外交関係を維持する方向で働きかけましたが、1945年11月4日「日本政府と中立国代表との公的関係に関する総司令部覚書」により、これらの国々との外交関係を停止するよう指令を受けました。
その後1946年12月2日には、日本政府は連合国・中立国含めて外国使節と一切の直接的接触を禁止され、日本の対外的な交渉はすべて総司令部を通じて行うか、総司令部が代行して行うこととされました。
このことから、論者によっては、日本の外交権は制約ないし事実上停止されたとの記述がなされることもあります。
また終戦ならびに連合国の占領統治に伴い、外務省の任務や組織も大きく改編され、次第に機能を回復してゆくようになります。
まず1945年8月26日には複数の省庁の再編が行われ、大東亜省が廃止されるとともに(11)、それまで大東亜省の管轄だった南洋庁や関東局の対外的業務は外務省に移管され、外務省は満州・中国・南方地域における在留邦人や財産に関する事務を管掌することとなります(12)。
1945年12月31日には内閣情報局の廃止を受けて、外務省内に情報部が戦前と同じく再び設置され、情報・報道・国際文化に関する事務を担当しました(13)。
また1946年1月30日には樺太・朝鮮・台湾に関する業務が、内務省から外務省に移されました(14)。
1946年3月1日には外交官の訓練・養成機関として外務官吏研修所が創設され、これが現在の外務省研修所として引き継がれてゆきます。
その後いくつかの組織改編を経た後、それまでの戦前の官制(勅令)に基づく組織から戦後の法律に基づく組織へとその性質を大きく変えることとなったのが、1949年6月1日に施行された外務省設置法です(15)。
この中で規定された外務省の任務の中には、「外交使節及び領事官の派遣及び接受」・「条約その他の国際約束の締結」・「国際機関及び国際会議への参加」なども含まれており、また在外公館に関する規定も盛り込まれるなど、通常の外交活動や機能に対する法的基盤を与えるものでした。
また占領統治を円滑に進めるために、連合国進駐や総司令部との折衝を担当する日本政府側の窓口機関として、1945年8月26日に終戦連絡中央事務局(終連)が外務省の外局として創設されました(16)。
その後終連は1948年1月31日に廃止され、代わりに総理庁の外局として連絡調整事務局が創設されますが(17)、1949年6月1日には外務省内に連絡局が設置される形で再び総司令部との対外折衝窓口は外務省の手に戻ります(15)。
その後サンフランシスコ講和条約が締結され占領から独立に向けて動いていた1951年12月1日に、外務省内に国際協力局が創設され(18)、1952年4月に占領統治が終わるまでここが総司令部との連絡調整を担当することになります。
また外交権の停止に伴い、日本の在外公館も閉鎖されました。
1945年10月25日には総司令部が日本の在外公館にある文書及び財産を連合国に引き渡すよう指令し、それを基に1945年11月から1946年にかけて中立国6カ国にある在外公館は全て閉鎖されることとなります。
その後長い間在外公館を持たぬままの状態が続きましたが、1950年2月9日には日本の講和独立と国際社会復帰を視野に、日本政府の在外事務所の開設に関する総司令部外交局からの覚書を受けて、日本はアメリカ国内4箇所(ニューヨーク・サンフランシスコ・ロサンゼルス・ホノルル)に在外事務所を設置します。これが戦後最初の在外公館再開のきっかけとなりました。
その後1950年4月19日の「日本政府在外事務所設置法」(19)を基に、日本は在外事務所を次々に開設し、1951年9月末までにアメリカ(6箇所)やインド(3箇所)、ブラジル・インドネシア(各2箇所)、イギリス・フランス・スウェーデンなど(各1箇所)、合計30箇所の在外事務所が設置されています(20)。
また国際機関への参加ならびに加盟についても、占領当初は日本の参加は認められませんでした。
しかしながら1948年より、技術的・専門的な性格の国際会議や国際機関については、総司令部が許可したものについては、日本も参加することが認められるようになりました。
これを受けて、日本は占領統治下においても、万国郵便条約(UPC:1948年9月24日)、国際電気通信条約(ITU:1949年1月24日)、国際捕鯨取締条約(ICRW:1951年4月21日)、世界保健機関憲章(WHO:1951年5月16日)、国連教育科学文化機関憲章(UNESCO:1951年7月2日)、国連食糧農業機関憲章(FAO:1951年11月21日)、国際労働機関憲章(ILO:1951年11月26日)などに正式に加盟することになります。
日本が外交権を完全に回復したのは、1951年9月8日サンフランシスコ講和条約締結(21)と、1952年4月28日同条約発効に基づく占領統治終了ならびに講和独立からでした。
以後日本は、国際連合(1956年12月18日)や経済協力開発機構(OECD:1964年4月28日)など数多くの主要な国際機関に加盟し、また世界各国・各機関に在外公館を設立してきました。
日本は戦争と占領という時代を経た後に、国際社会の中で一定の役割を担う国として歩み続けています。
<林 大輔(研究員)>
(本記事は、執筆者個人の見解に基づくものであり、当センターの公式見解とは関係ありません)