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地域 | 日本 |
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都市名 | 横浜 |
解説 | 横浜製鉄所は幕末の1865年10月13日(慶応元年8月24日)、横浜石川口において竣工した。産業が未分化であった当時、製鉄所の名称ではあったが、実際は製鉄・精錬から造船・修正までを一括で行った。当初はヴェルニー、ドロートルらフランス人技師団が業務を担った。横浜製鉄所は明治維新後、横浜裁判所総督・東久世通禧によって接収され、1869年11月30日(明治2年10月27日)より横須賀製鉄所と共に大蔵省の管轄となった。1870年8月9日(明治3年7月13日)には民部省の管轄となり、工部省設置後は同年12月15日(閏10月23日)に工部省に移管された。1871年5月25日(明治4年4月7日)には横浜製作所に改称され、1872年4月5日(明治5年2月28日)には海軍省に移管された。同年11月16日(明治5年10月16日)には三度改称され横浜製造所となり、海軍省主船寮の管轄となった。横浜製造所は1873年12月5日には海軍省から大蔵省に移管され、さらに1874年1月9日には大蔵省から内務省へ、1878年10月には再度海軍省へと移管された。その後、1879年12月30日に横浜製造所を平野富二(石川島平野造船所経営)に10年間貸与することが決定された。平野は横浜製造所を横浜石川口製鉄所と改称し、イギリス人技師アーチボールド・キングを招聘し、船舶用機関および諸機械の製造を開始した。1883年9月には平野より海軍省へ、旧横浜製造所の設備一切を石川島に移転することが請願され認可された。これにより、旧横浜製造所は完全にその姿を消すこととなった。ちなみに、石川島平野造船所では砲艦「鳥海」(1887年8月20日進水式)が建造されている。 |
上位の階層 | |
参考資料 | 東京石川島造船所編『東京石川島造船所五十年史』東京石川島造船所、1930年、13-14頁。田中宏巳『横須賀鎮守府』有隣堂、2017年、30-42頁。「横浜石川口製造所引移の件」(アジ歴Ref:C11018902400)。 |
歴代長官 部局長等 |
長官: |
御雇外国人 | ドロートル/ゴートラン/ルッサン/ダルビエー |