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地域 | 日本 |
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解説 | 1907年3月25日に日本政府主導の長江航路一元化政策に基づき、日清戦争後から長江航路に進出していた大阪商船会社・日本郵船会社・湖南汽船会社・大東汽船会社の4社がそれぞれの航路を提供して設立した汽船会社(資本金810万円)。設立には日本政府が関与し、年額80万円の補助金下付、逓信省管船局監理課長の社長就任など、国策会社としての性質が強かった。開設時には、既存の上海―蘇州間・上海―杭州間・上海―漢口間・蘇州―鎮江間・漢口―湘潭間などに加え、漢口―常往間・九江―南昌間・鎮江―清江間航路を開設。当初は上海―漢口間航路などで先発のイギリス資本汽船会社であるバターフィールド・スワイア商会(太古洋行)、ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)、および清国の招商局と激しい競争を展開したが、辛亥革命頃より優勢となり、第一次世界大戦期に業績を伸ばした。1918年には大阪―漢口線、1920年には上海―広東線、1922年には四川航路(宜昌―重慶線)、1926年には上海―天津線を開設。1928年の済南事件以後は排日運動により業績が悪化。1937年7月の日中戦争勃発後は各航路が停止された。1939年8月5日には日中間海運事業の統合のため、東亜海運会社が日本政府指導下11社の共同出資により設立されると、資産・社員のすべてを出資して海運業から撤退し、持株会社となった。 |
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参考資料 | 「日清汽船会社」(小風秀雅執筆)丸山雍成・小風秀雅・中村尚史編『日本交通史辞典』吉川弘文館、2003年、692-693頁。日本郵船株式会社庶務部文書課編『日本海運五十年小史・現代日本海運史年表(開国以降大正八年末迄)』日本郵船株式会社、1921年。 |