トップページ > テーマ別検索「公文書に見る外地と内地」 > コラムNo.1【 内地と外地を結んだ民間航空網 】
1920年代~1930年代は民間航空網が急速に発達した時代だった。
民間航空は有事には軍事目的で動員することが可能との思惑から、欧州諸国は競って大規模な支援をおこない、そうした状況に対抗して、日本政府も民間航空網の拡充に努めた。
内地と外地を結ぶ航空路線が初めて開通したのは1920年代末のことだったが、その後10年間で、日本本土と朝鮮、台湾、満洲などを相互に結ぶ航空網は急テンポで拡大した(画像1)。
内地と外地を結ぶ初の定期旅客航空は、1929年9月に日本航空輸送株式会社が営業を開始した福岡―蔚山―京城(現在のソウル)―平壌―大連便だった。
日本航空輸送株式会社は、当時、日本の民間航空事業を担っていた国策会社で、すでに東京―大阪―福岡便を運航しており、これを乗り継げば、東京を出発して翌日には大連まで到着することができるようになった。
使用飛行機は、オランダのフォッカー社製のフォッカーF7型(乗員2名、旅客8名)(画像2)または、アメリカ製のフォッカースーパーユニバーサル(乗員2名、旅客6名)で、運賃は福岡―京城間40円、京城―大連間40円だった。
画像2-1 フォッカーF7型旅客機
(件名:飛行場航空空路気象 民間航空路 国内飛行 日本航空輸送株式会社航空路に関する件 飛行許可願出に関する件(8画像目) Ref:C04021869800)
画像2-2 フォッカーF7型旅客機の客室
(同(9画像目)Ref:C04021869800)
ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の株式会社ジェイティービーの前身)編集の『旅程と費用概算』(1930年)によれば、当時、旅客船による神戸―大連間の所要日数は4日(出発から3日後に到着)で、運賃は、一等65円、二等45円、三等19円であった。
『旅程と費用概算』は、旅行のモデルルートや費用の概算を掲載した戦前期日本を代表する旅行案内書で、ほぼ毎年改訂されていたが、1930年版には航空路線に関する記載は存在しない。
航空路線が、船舶航路と並んで掲載されるようになるのは、1932年版からのことである。
福岡―大連間の定期航空が始まった1929年当時、所要時間では飛行機に優位性があったものの、飛行機には安全性に対する危惧が大きく、船舶に代わる実用的な輸送手段とはまだ見なされていなかった。
その後1932年9月には、関東軍による保護指導のもとで満洲航空株式会社が設立され、同年11月より定期営業を開始した。
当初開通したのは、新義州―奉天(現在の瀋陽)―新京(現在の長春)―哈爾濱(ハルビン)―斉斉哈爾(チチハル)便などで、新義州で日本航空輸送株式会社の便と連絡すると、内地を出発して翌日には満洲まで行くことが可能となった。
また、1935年10月には、日本航空輸送株式会社が、福岡―那覇―台北便の運航を開始し、福岡を朝出発して、その日のうちに台北まで行くことができるようになった(詳しくは、「空監第1116号10.10.4内地台湾間航空輸送に関する件」(Ref:C05034292500)参照)。
さらに、1939年4月には、大日本航空株式会社が、横浜―サイパン―パラオ間で、月2回の定期航空便の運航を開始した。
大日本航空株式会社は、国内のすべての民間航空輸送会社を統合して、1938年12月に設立された国策会社である。
営業開始時の時刻表によれば、火曜日の朝に横浜を出発して、その日のうちにサイパンに到着、木曜日にサイパンを出発して当日中にパラオに到着することとなっていた(詳しくは、「東京パラオ間定期航空に関する件」(Ref:C01007343400)参照)。
内地で航空行政を所管したのは逓信省航空局だったが、朝鮮、台湾、満洲、関東州、南洋では、朝鮮総督府逓信局(1943年からは交通局航空課)、台湾総督府交通局逓信部が、満洲国交通部、関東逓信官署逓信局、南洋庁拓殖部交通課(1942年からは交通部交通課)が、それぞれ航空行政を管轄した。
画像3 件名:海州飛行場設置に関する件(1画像目)Ref:C01007118400
1938年5月に、朝鮮総督府逓信局が送付した「海州飛行場設置に関する件」(Ref:C01007118400)からは、内地および外地の各機関が、それぞれ情報を共有しながら航空行政を所管していたことが確認できる。
文書は、当時、朝鮮半島中西部に新設された海州飛行場に関して、飛行場の状況や図面を関係各所に送付したものである。
部外者に対しては絶対に秘密にするよう求めており、同飛行場については、一般向けの告示等も行わない旨の注意書きが記されている。
通報先一覧も掲載されており、陸軍省副官、海軍航空本部長、日本航空輸送株式会社社長らと並んで、逓信省航空局長官、関東逓信官署逓信局長、台湾総督府交通局逓信部長、満洲国交通部航路司長をあげている。
文書からは、各地の航空行政機関が、お互い連携を取りながら民間航空網を担っていた様子がうかがえる。
各地の航空行政機関には、相互に人事的な交流もあった。
ここでは、戦後、航空庁長官や日本航空株式会社社長を歴任した松尾静磨(1903-1972年)のケースを紹介する。
松尾は、九州帝国大学工学部を卒業した後、民間会社を経て、1930年に逓信省に入省した。
逓信省では航空局勤務となったが、すぐに朝鮮総督府逓信局への出向を命じられた。
戦後の松尾の回想によれば、朝鮮総督府から大卒の検査官がいないので、誰かよこしてくれと言われて、行くことになったのだという。
松尾は、朝鮮で蔚山飛行場長、大邱飛行場長などを歴任した後、1938年に、突如、内地への帰任を命じられ、大阪飛行場長となった。
松尾本人は、急な転任命令で、宮仕えのつらさをしみじみと感じたと回想しているが、内地と外地の航空行政機関の間では、このような職員の交流も行われていたのである。
<水沢 光(研究員)>
(本記事は、執筆者個人の見解に基づくものであり、当センターの公式見解とは関係ありません)