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Area |
China
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City name |
Taiyuan
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Commentary |
第1軍は華北の会戦に備えるために北支那方面軍と同時に創設された。1937年9月、東京において編成され、2日、東京を出帆、14日、河北省豊台に到着、支那駐屯軍司令官を第1軍司令官に任命、北支那方面軍の戦闘序列に入った。太原攻略戦や徐州会戦、北部山西作戦に参加した。1938年12月、司令部を山西省太原市に移し、主に山西省周辺での討伐作戦を担当、また山西軍を率いる閻錫山との交渉(「対伯工作」)にあたり、切り崩しを図った。最後の軍司令官は陸軍中将澄田??四郎。1945年8月18日、復員が下命され、9月2日、停戦協定が締結、隷下の兵団が所在地に集結し、9月中に各所在地において武装解除された。司令官は9月10日、日本官兵善後連絡部山西地区連絡部長となり、第2戦区長官の閻錫山を投降受理主管とした。軍属は第1次内地帰還部隊として1946年3月以降、数次に渡り帰国し、部隊の一部(約1万名)は第二次輸送計画により帰還した。軍司令部は山西軍に武装その他を引き渡し、軍主力と共に第三次輸送計画において帰国。5月5日、太原を発し、7日、天津収容所に入所した。15日に塘沽から海防艦(T13)に乗船し、21日、博多湾に上陸、帰国を果たした。22日に復員式を行い、25日に復員を完結。なお、第1軍隷下の兵員の中には終戦後、山西軍(閻錫山指揮下の国民党軍)に参加し、中国大陸に残留するものがいた。残留者の約7割は1948年までに帰国したが、一部は山西軍と中共軍の戦闘に参加し、戦死または捕虜となって抑留された。その多くが1953年から56年にかけて帰国している。
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Reference materials |
『戦史叢書 北支の治安戦〈1〉』、25~29頁
『戦史叢書 北支の治安戦〈2〉』、123~126頁、134~141頁
『戦史叢書 大本営陸軍部〈1〉昭和十五年五月まで』、470~474頁、613~616頁
『戦史叢書 昭和二十年の支那派遣軍〈2〉終戦まで』、571頁
中国派遣軍残務整理部編『支那派遣軍復員本部の歴史』「附録 復員完結日一覧表」、5頁(『復員関係史料集成』第1巻、ゆまに書房、2009年9月)。
厚生省引揚援護局未帰還調査部編『満洲・北鮮・樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況』「中国本土における終戦と山西軍参加者の状況」35~37頁1959年5月。
伊藤一朗「第一軍復員資料」(臼井勝美・稲葉正夫編『現代史資料』第38巻〈太平洋戦争4〉、みずす書房、1973年2月、505~513頁)。
「中国戦区日本官兵善後処理事項」档案影像7-4、5画像目(http://alohas.archives.gov.tw/38/search.html)
アジ歴Ref:C12122432800、1~6画像目。C04120413200、1~2画像目。C13070327600、1~54画像目。C13070326500、1~21画像目。C13032029900簿冊。
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