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ユリ根の輸出 ~欧米で愛好された日本の草花~

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ヨーロッパ、アメリカに輸出される日本のユリ

  • (1) 『百合花選』

    (1) 『百合花選』

幕末の開港後から昭和初期にかけて、ある植物が日本からヨーロッパやアメリカに向けてさかんに輸出されていました。それが、 (1) に描かれている花、ユリです。 (1) の絵は、ユリの輸出を行っていた横浜植木株式会社という園芸会社が明治27年(1894年)に出版した『百合花選』の中の1ページです。ユリの種類はたくさんあるため、園芸業者は一覧としてこうした図集を発行し、一方、欧米諸国ではこうした花が咲くことを楽しみにユリの球根(ユリ根)を輸入し、育てていたのです。戦前にこうしたユリ根の貿易があったことを知る人は、意外に少ないかもしれません。

ここでは、アジ歴の中から、ユリ根の輸出に関わる資料を紹介していきます。

博覧会と欧米における日本のユリ人気

  • (2) 『墺国博覧会筆記』

    (2) 『墺国博覧会筆記』

  • (3) 駐日ベルギー公使から外務大臣への文書

    (3) 駐日ベルギー公使から外務大臣への文書

  • (4) 農商務次官から外務次官への書簡

    (4) 農商務次官から外務次官への書簡

日本のユリは、もともと主に食用として栽培されていました。しかし、江戸時代に来日した医師シーボルトや植物学者ツンベルクらによってその花の美しさが欧米に紹介されると、観賞用としてのユリを賞賛する声が上がるようになりました。特にその人気が爆発的になったのは、明治6年(1873年)にオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本のユリが出品されて以後のことと言われています。

この万博は、明治政府が初めて公式に参加した万博で、その様子は博覧会事務局副総裁として活躍した佐野常民が『墺国博覧会筆記』という書物にまとめています。その中にはユリについて直接言及した箇所はありませんが、日本の出展品を紹介した部分には、「花さく草木のめづらしきは其根をつつみて保たしめ」という一文があります (2)。ここで言う「花さく草木」の中にはユリも含まれていたでしょう。ウィーンに集まる各国の人にユリを見てもらうため、根を包んで大切に運んだことが想像されます。

その後もさまざまな展覧会の場で日本のユリが展示されました。たとえば、大正9年(1920年)にベルギーのアントワープで開かれた国際花木展覧会では、展覧会委員長から会場内の日本庭園に植えるためにユリの球根を送って欲しいとの手紙が送られています (3)。ただ、この時は既にユリの休眠期を過ぎて遠路の輸送に耐えられないという理由で出品を見合わせ、代わりに横浜植木株式会社のロンドン支店から盆栽を出品する旨が回答されています (4)。日本の盆栽も、当時欧米で愛好されていた日本産物品のひとつでした。

ユリ根の貿易~その輸出額と産地~

  • (5) 内国産百合根累年輸出額表

    (5) 内国産百合根累年輸出額表

  • (6) 内国産百合根国別輸出額表

    (6) 内国産百合根国別輸出額表

  • (7) 内国産百合根輸出港別表

    (7) 内国産百合根輸出港別表

  • (8) 横浜に於ける本邦産草木苗根市価

    (8) 横浜に於ける本邦産草木苗根市価

  • (9) 商務書記官から外務大臣への電報

    (9) 商務書記官から外務大臣への電報

では、どれくらいの量のユリ根が、どの港から、どの国へと輸出されていたのでしょうか。明治42年(1909年)5月に農務局により作成された「園芸農産物の関税に関する調査」を見てみましょう。この資料は、当時の日本政府が、幕末以来結んだ不平等条約により行使できなくなっていた関税自主権を完全に回復することを念頭に、貿易品目ごとに関税制度や税率を調査した際に作られたものです。

この資料の「第23表 内国産百合根累年輸出額表」によれば、明治41年(1908年)に日本から輸出されたユリ根は1200万個近く、金額で45万円近くに上っていました(5)。また、国別の輸出統計からは、そのほとんどが欧米諸国に運ばれたこと、特にイギリスとアメリカ合衆国への輸出が抜きん出ていたことがわかります (6)。輸出港別の統計からは、横浜港からの輸出が9割以上を占めていたことがわかります(7)。なお、横浜におけるテッポウユリのユリ根には、一本あたり2円50銭~5円の値が付いています (8)

輸出が始まった当初、ユリ根の産地は輸出港横浜に近い関東近郊に限られていましたが、明治時代半ば以降、鹿児島県の南島地域も主要な産地のひとつとなります。特に鹿児島県沖永良部島産のユリは「永良部百合」の名で海外でも親しまれました。 (9) は、昭和9年(1934年)に日本とアメリカの間で起こったユリ根輸入統制問題に関する資料ですが、その中に「エラブ」百合という言葉が出てきます。

ユリ根と植物検疫制度

  • (10) 輸出入植物取締法案の理由書

    (10) 輸出入植物取締法案の理由書

  • (11) 植物検査所官制中改正

    (11) 植物検査所官制中改正

  • (12) 植物検査所官制中ヲ改正ス

    (12) 植物検査所官制中ヲ改正ス

ユリ根は生きた植物であるため、輸出入に際しては、まわりの土を含めて病菌や害虫が付いていないか検査検疫する必要がありました。日本政府も、その検査検疫の制度を整備していきます。大正3年(1914年)には輸出入植物取締法が公布され、植物検査所が新設されています。その法案の理由書には「病菌害虫の附着せる植物の輸入、移入、輸出及移出を防止して植物の被害を減滅し其の輸出及移出を増進するの必要あり」と書かれていて、検査をきちんと行い、輸出を促進する意図があったことがうかがわれます (10)

この6年後の大正9年(1920年)には、植物検査所の検査官補の人数が12人から13人に増員されています(11)。この増員には、アメリカ合衆国で前年の6月に検疫法が改正されたことが影響しています。改正後はアメリカが輸入するユリ根に関して輸出国の官憲による検査証明が必要となったため、日本においてもユリ根の一つ一つについて病害虫の有無を検査し、また荷造り用の土壌も消毒する必要が生じたのです (12)

園芸会社のユリ根輸出用英語目録

  • (13) 園芸会社のユリ根輸出用英語目録

    (13) 園芸会社のユリ根輸出用英語目録

  • (14) 園芸会社のユリ根輸出用英語目録

    (14) 園芸会社のユリ根輸出用英語目録

  • (15) 園芸会社のユリ根輸出用英語目録

    (15) 園芸会社のユリ根輸出用英語目録

一口にユリといっても、いろんな種類があります。ユリ根の輸出に携わる日本の園芸会社は、欧米の業者が種類を間違えないで買えるように、英語で書かれた目録を作っていました。アジ歴の資料の中には、ユリ根取引をめぐる案件の参考資料として、埼玉県の園芸会社が発行した英文の卸し売り商品目録が収録されています。以下、その内容を見ていきましょう。 まず、表紙にはユリ根栽培用の畑とそこで働く人の写真が載っています(13)。広大な畑に、列状にユリが植えられています。園芸農家は、輸出する球根の大きさに合わせて、この畑で1~4年の期間ユリ根を育ててから、出荷していました。

中を開けると、まずユリ(Lilies)の項目があり、その冒頭には「イースターやクリスマス用の花として、広く愛されているユリほど美しい花はありません」と書かれています。欧米諸国でこれらの行事の時に飾りつける花の一つとして、日本のユリが使われていたことがわかります。 続いて具体的な品種名が挙げられます。輸出量の多い品種としては、Lilium formosum(タカサゴユリ)、Lilium Auratum(ヤマユリ)、Lilium Magnificum(シロカノコユリの変種)など6種類が挙げられ、それぞれについてサイズと1ケースあたりの価格が書かれています(14)。ただ価格については変動が大きいことと、購入側からの価格提示によって最低価格を見積もることが脇に注記されています。 さらに、その他の全36種類については花の特徴が記されています。たとえばLilium Concolor(ヒメユリ)については「上を向いて咲く星形の花で、直径はおよそ2インチ。洋紅色で黒い斑点がある」と書かれています(15)

これに続く部分では、ハナショウブや、ツツジ、ツバキ、サザンカ、カエデなどの植木、針葉樹や果物、野菜の種が載っています。こうした目録を見ていくと、さらに当時の日本からどんな植物や野菜が輸出されていたのかがわかります。

<参考文献>
  • 鈴木一郎『日本ユリ根貿易の歴史』鈴木一郎、1971年11月