2023年8月31日
はじめに
2023年9月1日は、1923年に関東大震災が発生してから100年の節目になります。アジ歴では、「知っていましたか? 近代日本のこんな歴史」(うち、「帝都再建~関東大震災からの復興~」の章)及び「特集 震災と復興 明治・大正・昭和の公文書から」と2つのインターネット特別展を通じて、関東大震災を含めた震災に関する資料を紹介しています。本稿ではこれまでインターネット特別展で取り扱われていない、関東大震災に関する日本から海外への発信や、海外からの支援に対する対外措置などを取り上げます。
1.震災に関する日本からの発信と海外からの支援
1923年9月1日11時58分に、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の関東大地震が発生しました。この地震により、全半潰・消失・流出・埋没の被害を受けた住家は総計37万棟にのぼり、死者・行方不明者は約10万5千人に及びました。
外務省は、震災発生の翌日9月2日に海軍無線を通じて、震災発生に関する電報をイギリス・アメリカ・フランスの各大使とシンガポールの領事に送りました。電報では「東京ニ於テハ宮城※及山ノ手方面幸ニ無事ナルヲ得タルモ全市ノ約三分ノ二全滅ニ帰シ英米仏伊支各大公使館焼失シ横浜鎌倉方面ハ被害甚シキモノノ如シ政府ハ目下右ニ対スル応急措置ノ為努力中」とあり、震災発生直後の混乱振りがうかがえます【画像1】。これ以降、外務省は、「一般情報」として震災に関する情報を在外公館に継続して発信していきました。
※宮城(きゅうじょう)は現在の皇居を指します。
また被災地における外交官の安否情報についても外務省は発信していきました。10月15日発行の『外務省報』第45号の附録「震火災ト本省」では、震災による外務省庁舎の被害だけでなく、9月中旬時点での被災地における各国外交官の安否や各国公館の破損状況を記載しています。資料からは、アメリカやフランスなど多数の公館が全焼し、また横浜ではアメリカ領事やブラジル総領事が亡くなるなど、多大な被害が確認できます【画像2】。
震災の第一報は、震災発生の9月1日に横浜港に停泊中の船舶から無線で発せられ、これを受けた福島県磐城無線電信局によってサンフランシスコなどに向け打電されました。それによって震災発生の情報は瞬く間に世界中へと広がり、各国から続々と救援物資が日本に届けられました。特に突出していたのがアメリカからの支援でした。震災の第一報を受けたカルビン・クーリッジ大統領は、極東に派遣されていた艦隊に対して被災者救護を命じました。5日には駆逐艦スチュワート号が横浜に到着し、また10日に米や砂糖、味噌など多くの支援物資を積み込んだブラックホーク号が品川に入港しました【画像3】。
また世界各地に居留する日本人からも多大な支援がありました。ブラジルのサンパウロ州居留民による「母国大震災義捐金募集団」が発行した『母国大震災義捐金応募者名簿』には、ブラジル在住の日本人だけでなく、外国人からも広く義捐金を募集したことがわかります。また資料には1923年10~11月に大小毛布を合わせて2万枚近く送るなど、義捐金の一部を支援物資に換え日本に送っていたことについても記載しています【画像4】。
こうした震災に対する各国からの寄付金や支援物資について詳細に記録しているのが、外務省通商局が1924年4月に作成した「外国義捐金品一覧表」です。アメリカの赤十字社からの支援物資を例に挙げますと、米84,766袋、砂糖65トン、麦粉765トンなどの支援物資を、1923年9月19日にサンフランシスコ発のヴエガ号に積み込んで日本に送っていたことが資料から分かります【画像5】。
2.各国からの支援に対する日本の初動対応
上記の各国からの支援に対する日本の初動対応では、様々な問題が発生しました。1923年9月5日にアメリカの駆逐艦が横浜に入港して以降、外国からの援助船が続々と到来しましたが、港湾施設は破損し、支援物資の陸揚げは困難な状態でした。日本側の運搬船不足の事情を知ったアメリカからは、芝罘(中国山東省)から掃海艇を急行させて運搬船として利用したいという申し出がありました【画像6】
各国からの援助受入に関する方針の決定に迫られた日本政府は、9月11日に各国の震災救護活動に対する以下3点の処理方針を閣議決定しました【画像7】。
①食糧などの必要物資の提供は受け入れるが、出航前に交渉があった場合、日本から希望条件を示すこともある。
②人員派遣と運輸船舶の提供は「言語風説等」を理由に辞退する。
③治安上の理由により乗組員の上陸及び荷揚げは日本側で調査を行う。
特に上記の日本政府の処理方針の③について、ソ連による革命思想の宣伝に注意を要することが記されており、これは日本に回航中のソ連船入港を念頭に置いたものでした。
1917年の帝政ロシアの崩壊後、1925年の日ソ基本条約締結まで日ソ両国の国交は断絶しておりましたが、震災発生後、ソ連からも救援船が日本に派遣されました。その中で医師・看護師、医薬品などを乗せた汽船レーニン号が9月12日に横浜に入港しましたが、翌日13日には関東戒厳司令部により国外退去を命じられました。関東戒厳司令部は退去理由として、レーニン号の乗組員が革命委員会・共産主義者の宣伝の使命を有し、救援物資は限られた範囲(労働者)のみに提供する予定であり、震災は日本における革命達成上の天の使命であると不穏な発言をしているという情報を得たためとしています【画像8】。レーニン号船上における国外退去通達の交渉は関東戒厳司令部主導で行われ、石炭と水の補給を受けたレーニン号は14日に横浜を出港しました。
レーニン号退去後の対応について、外務省は9月14日には在ウラジオストク渡邊総領事代理を通じ、ソ連側に救援船派遣を感謝しつつ、戒厳令実施中であり、また不完全な交通通信状態を理由として、日本政府の謝意表明が十分果たせなかったことを認め、ソ連側に理解を求めました【画像9】。
また9月18日には、将来の日露間の事態悪化を恐れた日本政府が、今後のソ連の援助受入に関して、以下の方針を閣議決定しました【画像10】。
①支援物資の配給を日本政府に一任するならば、ソ連からの物資を受領する。
②物資の輸送に関して、ソ連船舶の入港を辞退して、ウラジオストク領事が物資を受領し、日本からの定期船による輸送の可能性を提示する。
レーニン号退去後、上海から物資を載せたソ連船「トムスク号」の派遣計画を中止するなど、ソ連政府からの救援物資輸送の活動は事実上終息しましたが、日本への輸出物の関税の免除や、救済のための物資の運賃の免除など、ソ連の震災救済策は継続されました。
3.震災復興における日米交流
震災発生から7年後の1930年は、3月の帝都復興完成祝賀会の挙行、9月の震災記念堂(現東京都慰霊堂)の完成など、震災復興の節目の年となりました。同年2月に時事新報社は、震災発生当時のアメリカの一般市民からの同情・支援に対する謝意表明と東京・横浜両市の復興の実情をアメリカに報告するため、婦人代表からなる「遣米答礼使」の計画を発表しました【画像11】。婦人代表を選考する委員には、幣原外務大臣、中川復興局長官、堀切東京市長、有吉横浜市長も加わっており、選考に当たり、幣原外務大臣は「優雅なる婦人使節が日米国交の上に愉快なる記憶を残すやう使命を全うせん事を祈る」と語りました【画像12】。
東京・横浜の復興状況を視察した答礼使一行は、3月18日に横浜を出港し、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、シアトル、ポートランドなどの順序にてアメリカ各地を回り、6月2日に帰国しました。4月2日から6日までのサンフランシスコ滞在時に、答礼使一行は商業会議所、赤十字社などを訪問しており【画像13】、ジェームズ・ロルフ市長による歓迎の様子も新聞報道されました【画像14】。答礼使一行の来訪に関して、在サンフランシスコ金子総領事代理は「両国親善関係ノ増進ニ資セムトスル主催者側ノ本計画ハ米人側ニ好感ヲ与へ一行亦到ル所ニ於テ好印象ヲ残シタル如ク認メラル」と高く評価しました【画像15】。ロサンゼルスやシアトルの領事からも同様の評価があり、また在米出淵大使からは「大統領夫妻ノ謁見等極メテ好都合ニ取運ヒ」という報告があったことから、遣米答礼使は日米親善において一定の役割を果たしました。
おわりに
ここまで、外務省からの発信や各国からの支援、日本政府の対外措置、復興における日米交流を通じて、震災における日本と他国との連携とその課題を紹介しました。本稿を通じて、過去の大震災において日本が国際社会とどのように関わってきたかを実感いただければ幸いです。
※資料に記されている数値などの情報は、あくまでそれぞれの資料が作成された当時のものであり、他の資料や現在発表されている様々な記録や研究によって示されている情報とは異なることがあります。
【参考文献】
・飯森明子『大正期日本外交の協調と対立 : 試行錯誤する大正期国際協調路線』、常磐大学大学院人間科学研究科博士論文、2000年3月
・岡本多喜子「関東大震災の義捐金処分と浴風会の創設」『明治学院大学社会学・社会福祉学研究』第146巻、明治学院大学社会学部、2016年3月
・外務省外交史料館「企画展示「大震災と外交―関東大震災と明治・昭和三陸地震―」について」『外交史料館報』第26巻、2012年
・渋沢栄一記念財団渋沢史料館『渋沢栄一と関東大震災―復興へのまなざし―』、2013年
・土田宏成『災害の日本近代史:大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』、中央公論新社、2023年
<アジア歴史資料センター調査員 溝井慧史>