コラム

植民地朝鮮における選挙と参政権

植民地朝鮮における選挙と参政権

朝鮮と選挙

朝鮮に選挙制度が敷かれるようになった経緯は、内地である日本と大きく異なりました。朝鮮総督府は、全土的な独立運動である「三・一独立運動」を受けて、1919(大正8)年8月に官制改正を行います。続けて1920年7月には地方制度が改編され、選挙制が導入されることになりました。しかし、選挙といっても、諮問機関の議員の選出であり、議員に議決権はありません。また、制限選挙だったことも日本内地と異なる点でした。

1920年の地方制度改編と諮問機関の設置

朝鮮には大日本帝国憲法が施行されなかったため、併合当初から朝鮮人に参政権はなく、朝鮮に暮らす日本人にも参政権はありませんでした。朝鮮には、県や市町村にあたる道、府・郡、面という単位がありますが、首長である道長官、府尹・郡守、面長は任命制が採られていました。また、1914(大正3)年4月の府郡・面の統廃合に伴って府制が定められると、府に諮問機関として協議会が設けられましたが、議員は道長官による任命となっていました。これが選挙制に変わったのが1920年7月の地方制度改編です。

「府制改正制令案」
資料1「府制改正制令案」(これにより、府協議会議員の選挙制が導入された) 府制中改正制令案 (archives.go.jp)

この改編では、道・府・面のすべてに諮問機関として評議会や協議会が設置されました。このうち府協議会と、全土に24ある「指定面」の協議会では議員の選挙制度が導入されました。日本内地と異なり「協議会及協議会員ノ選挙其ノ他協議会員ニ関シ必要ナル事項ハ朝鮮総督之ヲ定ム」とされ、選挙に関する決定は総督の権限によりました。有権者は独立生計を立てている25歳以上の男性であり、住民になって1年以上、税(賦課金)年額5円以上の者とされました。また、選挙が実施された地域は日本人居住者が多いことも特徴です。1914年の府制制定により、居留民団区域が府に編入されており、府の日本人の数は増えていました。指定面は府に準じる市街地で、日本人が多く暮らす地域でもありました。

朝鮮人参政権と自治運動

「閔元植らによる参政権付与の請願」
資料2「閔元植らによる参政権付与の請願」(画像は1921年の時のもの、紹介議員は大岡育造) 朝鮮ニ衆議院議員選挙法施行ノ請願 (archives.go.jp)

ところで、当時は朝鮮人の側からも参政権や自治の要求がありました。参政権については、1920(大正9)年2月に提出された「衆議院議員選挙法ヲ朝鮮ニ施行ノ件」(閔元植代表ほか105名)が最初です。請願はほぼ一貫して帝国議会への参加を要求していました。国政への参加要求は、日本の同化政策を推し進めて朝鮮人にも参政権を付与すべきだという主張に基づいており、閔元植が立ち上げた国民協会は1941年まで請願運動を続けていました。

自治運動については、1922年頃、東亜日報社の金性洙、宋鎮禹らが合法的な政治運動として総督府の協力を得て研政会という団体をつくろうとしていました。しかし総督府に宥和的な姿勢が批判を呼び、結成には至りませんでした。自治運動そのものは植民地議会の設置や民族自立を訴えるものでしたが、その後は総督府に親和的な勢力と非妥協的な勢力に分裂することになりました。

総督府は三・一独立運動後、ある程度、言論や出版、結社などに朝鮮人の活動を認めましたが、それは、逸脱者には「峻厳ノ刑罰ヲ以テシ寸毫モ仮借スル所ナカラム」という統制とセットでした。そのため、一定の朝鮮人士を総督府側に引き寄せた一方、朝鮮社会では、日本に協力するかどうかをめぐって溝が深まることになりました。

1930年の改正と議決機関への転換

「道制制定制令案」
資料3「道制制定制令案」(道会議員の選出には府会議員や邑会議員、面協議会員による選挙が導入された(間接選挙制)) 道制制定制令案 (archives.go.jp)

地方制度は1930(昭和5)年6月にも改正が行われ、道評議会と府協議会はそれぞれ道会、府会に名称が変更され、指定面の協議会は邑会と名称が変わりました。このとき、道会、府会、邑会は諮問機関から議決機関になり、また、これまで任命制だった道会にも間接選挙制が採られるようになります。ただし、邑会以外の面協議会は諮問機関のままに置かれました。

戦争の進展と参政権付与

「朝鮮及台湾住民政治参与ニ関スル詔書」
資料4「朝鮮及台湾住民政治参与ニ関スル詔書」(詔書案には何度も手直しが入った跡が見られる) 朝鮮及台湾住民政治参与ニ関スル詔書 (archives.go.jp)

この後、朝鮮人の参政権付与は戦争の進行にともなって議論されるようになります。太平洋戦争の敗色が濃厚になった1945(昭和20)年4月、衆議院議員選挙法・貴族院令が改正され、貴族院では朝鮮から7名、台湾から3名の議員が勅任されることになりました。

衆議院では朝鮮と台湾の議員について、25歳以上の男性で、直接国税15円以上を1年以上収めている者とされ、定数は朝鮮から23人、台湾から5人とされました。しかしながら、その約4か月後に日本は敗戦に至り、選挙は一度も実施されることはありませんでした。

齊藤涼子(アジア歴史資料センター調査員)

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