東京の選挙粛正運動と女性たち
1925年衆議院議員選挙法改正と選挙不正防止
1925(大正14)年5月に改正された衆議院議員選挙法(いわゆる普通選挙法)では、男子普通選挙制度が導入されるとともに、それまでの選挙で買収の原因になっていると考えられた戸別訪問の禁止に加え、選挙費用の制限などの厳しい規定が設けられます。これによって公正な選挙が行われることが期待されました。
ところが、1928年2月の初めての男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)以降、買収はかえって組織化され、政党の費用援助を受けた候補者が選挙ブローカーなどを通じて買収を行うようになり、選挙費用はますます増加し、腐敗はさらに深まりました。また、政府与党が選挙と警察を管轄する内務省の人事に介入することで、警察官が与党側の候補者に有利に事が運ぶよう取り締まりを行う選挙干渉も行われました。野党側もまた、選挙干渉に対抗する手段として投票買収を行わざるを得ませんでした。
政党による投票買収や選挙干渉に対する批判が高まる中で、1930年に民政党の浜口雄幸内閣は選挙の革正を図るために選挙革正審議会を設置しましたが、浜口首相の遭難により中断します。さらに、政友会の犬養首相が五・一五事件で急逝し、政党内閣が終わりを告げると、選挙革正審議会の答申は挙国一致内閣である斎藤実内閣に引き継がれることになりました。
選挙粛正委員会令の公布
1932(昭和7)年に斎藤内閣で開催された法制審議会では、浜口内閣の選挙革正審議会の答申を土台とする、選挙に関する不正を防止し粛正を図るための「選挙委員会」について提案がなされました。これは法制化されませんでしたが、次の岡田啓介内閣では後藤内相が選挙粛正について地方官会議で宣言し、1935年5月に「選挙粛正委員会令」が公布されるに至りました。
これ以降、内務省主導のもと、道府県ごとに置かれた選挙粛正委員会と民間で設立された選挙粛正中央連盟にけん引されながら、官民一致協力の教化運動である選挙粛正運動が全国で行われることになりました。
まずは、1935年秋の府県会議員選挙に向けて第1次、1936年2月の第19回総選挙に向けて第2次の選挙粛正運動が行われました。アジ歴公開資料(A15060218400)からも、その経過や様子を知ることができます。
東京府・東京市における選挙粛正運動
秋に府会議員選挙がなかった東京府では、1936年の第2次選挙粛正運動が最初の試みでした。東京市では、「正しき一票皇国の栄」、「模範選挙は東京から」といった標語を掲げ、1935年12月15日からの7日間と1月15日からの7日間の、それぞれ第1次、第2次強調週間において、市内で様々な宣伝や行事が催されました。その様子は、以下のレファレンスコードから見ることができます(A15060219600、A15060219300、A15060219700)。
例えば「東京市選挙粛正ニュース」(A15060219500)は強調週間における市内の様子について、次のように伝えます。
満都は一様に粛正色に彩られて、市民の心をぐつと緊張させた。先づ第一日の十五日、宣伝飛行機が全市を低空飛行してビラを撒布し出したと思ふと、警視庁と東京市庁の屋上高く、大きな気球が浮き揚つて「選挙粛正」の大文字を描き出す。……電車、バス、円タクなどの乗物には大小夫々の貼札高層建築物には大垂幕が揺れ、料理屋、カフェー理髪店、湯屋など大衆の集まり場はいずれもポスターが掲出されて、どこも此処も粛正の一色。
このように、東京市内は宣伝で埋め尽くされ、選挙粛正一色だったことが分かります。
また、様々な行事も行われ、牛塚虎太郎東京市長らによる明治神宮での祈願式を皮切りに、35区別に一斉開催された大講演会には聴衆が殺到し、公正な選挙観念の普及徹底を図ることや、候補者を厳選し買収などの不正行為を排除することなどが決議されました。その他にも、選挙区別の大講演会、学生雄弁大会、小学生の書初め展覧会、子供たちの凧揚げ大会、粛正映画大会など、大人から子供までが参加して賑わった様子を伝えています。
選挙粛正運動と女性
特筆すべきは、女性たちの活動です。当時はまだ女性に参政権は認められませんでしたが、選挙粛正運動において、女性たちは家庭内から不正行為を防止する役割が求められました。そこで、選挙粛正中央連盟に協力する婦人団体などが中心となって様々な活動が行われました。
東京府では、1936年6月の府会議員選挙に向けた選挙粛正運動でその活動が活発化し、「選挙粛正は家庭から」といった標語を掲げて、街頭での宣伝ビラの配布、街頭行進、婦人集会などが行われました。選挙が終わるまでお茶の間に貼られたというリーフレットには、「家庭内に粛正気分をみたし、我が家から誓つて一人の棄権者も違反者も出さぬやう努めませう」、「投票日には国旗を掲げ、おいしい朝食の支度をして有権者を明るい心持で投票場へ送りだしませう」など、家庭内における女性の内助が説かれています。東京府は、こうした婦人団体の活発な協力活動を高く評価しました。
翼賛選挙貫徹運動へ
選挙粛正運動は、不正行為の防止に一定の効果が認められ、1936年以降も続けられました。しかし、日中戦争が長期化し太平洋戦争に突入すると、戦争を完遂する目標を達成するのに最適な人材を議会に動員するため、選挙では「出たい人より出したい人」を候補者として推薦する候補者推薦制度が用いられるようになります。選挙粛正運動もこうした動きを支え、1942年2月に開始された翼賛選挙貫徹運動へと発展解消されていきました。
松浦晶子(アジア歴史資料センター研究員)