「参考資料」にみる様々な普選運動
枢密院会議筆記にみる「参考資料」
衆議院議員選挙法改正に関わる枢密院会議筆記には、それまでの国内の選挙権獲得運動や諸外国の選挙制度などを衆議院議員選挙法調査会がまとめた、様々な「参考資料」が添付されています。この「参考資料」の中でも、小学校教員被参政権要望運動や僧侶被参政権獲得運動に関する冊子は、普選運動とともに様々な選挙権獲得運動が行われていた様子を示す史料であり、興味深い内容となっています。
小学校教員被選挙権要望運動
1925(大正14)年の衆議院議員選挙法改正まで、小学校教員には被選挙権が与えられていませんでした。その理由は判然とせず、1923年に行われた臨時法制審議会では湯浅倉平が「小学校教員はその職責上日夕児童と直接しおり同時に議員としての職責を完うすること困難なるのみならずこれに被選挙資格を附与するときは種々の弊害の伴う虞がある」(『大阪朝日新聞』1923年10月31日)ことを挙げています。
大正デモクラシーと呼ばれる風潮の中で、普選運動が本格化するに伴って小学校教員による被選挙権獲得運動も展開されるようになっていきました。この「参考資料 小学校教員被選挙権要望運動状況」によれば、本格的な運動となったのは第42議会(1919年12月26日~1920年2月26日)以降であるとされています。この議会において、京阪神の3市小学校教員の一部が貴族院に請願書を提出しました。ちょうど原敬内閣下で普選運動が盛んとなった時期であり、その影響を受けていたと見なすことができます。様々な選挙権獲得運動としての普選運動が垣間見えるのではないでしょうか。第44議会以降は全国市区小学校連合会による全国運動になりました。
僧侶被選挙権獲得運動
僧侶の被参政権は、政教を混同するという観点から認められていませんでした。1915(大正4)年以降、主に真宗本願寺派によって僧侶の被参政権が主張されるようになります。この資料によれば、運動は第43議会(1920年7月1日~1920年7月28日)以降に本格化したとされています。上述の小学校教員被選挙権要望運動とほぼ同じ時期であり、大正デモクラシーと呼ばれるような、当時のデモクラティックな風潮の影響がうかがえます。
この資料で本格的な運動の契機となったと記されているのは、1920年に山形市内の曹洞宗寺院光禅寺において行われた新年会であったとされます。この新年会では、同寺の住職最上道光ほか16の寺の住職らが「僧侶ト雖モ依然旧態ニ安ンスルヲ得ス直接参政権ヲ得ルハ当然ナリ」と主張する請願を提出することを議論しています。彼らはその後、山形県下の曹洞宗寺院600ヶ寺に印刷物を配布しました。同年2月1日には、神戸市内の本願寺説教所に集まった僧侶が同様に、僧侶選挙権獲得の請願運動を開始しました。
その後、1920年2月8日・9日には西本願寺において第一回各宗派懇談会が開催、運動方針が議決されました。この中には「普通選挙運動ト行動ヲ共ニセサルコト」という方針が定められていました。これは、僧侶被参政権獲得運動が普選運動に見られないようにするという決定であり、当時流行していた普選運動の中の1つと混同されかねないと考えられていたことを示しています。
両運動の結末
以上のように、小学校教員被選挙権要望運動と僧侶被選挙権獲得運動についての「参考資料」をもとに、様々な普選運動の一環としての被選挙権獲得運動を紹介してきました。その後、加藤高明内閣による衆議院議員選挙法改正によって、男子普通選挙制度が導入されるとともに、これらの被選挙権の制限もなくなったため運動は終わりを迎えます。両運動の詳細や、細かい経緯などは資料画像下URLから実際の資料をお読みいただければと思います。
髙島笙(アジア歴史資料センター研究員)