在郷軍人の選挙権獲得運動
在郷軍人と在郷軍人会
このように、抽籤により入営者を選抜していたことなどから、軍隊創設当初は当籤・現役入営→予備役のルートで在郷軍人となる者の人口比はさほど高くありませんでした。日清戦争・日露戦争という大規模な対外戦争において、補充兵役も含め大規模に兵力動員が行われた結果、戦争から帰還・除隊し在郷軍人となる者が急増しますが、地域においては彼らを組織化するため「在郷軍人団」を結成する動きが進みます。
1910(明治43)年11月3日、全国の在郷軍人団を統合する形で、帝国在郷軍人会が創設されました。日露戦争後に素行が問題となっていた在郷軍人を統制・教化するとともに、教化された在郷軍人を国民の模範と位置づけ、国民全体の教化に役立てる「良兵良民主義」が掲げられました。なお、帝国在郷軍人会において「在郷軍人」といったばあい、先に説明したように入営・従軍歴を有する予備役・後備役のみならず、抽籤に外れて入営しなかった補充兵も含まれており、町村単位の分会では補充兵に対する教練や演習なども行われました。
帝国在郷軍人会創立後も、在郷軍人統制は依然として課題でした。大正時代の前半は都市住民の不満が暴動化する「都市民衆騒擾」事件が多発した時代であり。参加者の多くは男性労働者で、当然ながらそのなかには多数の在郷軍人が含まれていました。特に1918年の米騒動では、多数の在郷軍人が参加し検挙されたことが問題となりました。この時期各地で頻発した労働争議や小作争議でも、労働者・農民側に在郷軍人が多数参加したことが確認されています。
在郷軍人による選挙権獲得運動の出現と広がり
このように在郷軍人への統制が不安定な時期に発生したのが、在郷軍人選挙権獲得運動です。この時期には他にも金鵄勲章年金増額運動や恩給増額運動など在郷軍人による運動がいくつも起こっており、在郷軍人の自発的かつ組織的な運動が活発化していたようです。選挙権獲得運動についてみると、1920年頃に行われた愛媛県下の在郷軍人からの国会請願が初発とみられますが、本格化したのは1923(大正12)年になってからでした。3月に神奈川県下の分会で結成された「在郷軍人参政同盟」の活動が口火となり、周辺地域だけでなく遠隔地からも賛同する分会が現れ、全国的運動となっていきました。特に京都の「在郷軍人選挙権促進会」と神戸の「在郷軍人参政同盟」の活動が、当時注目を集めました。
彼らの選挙権要求は、一般に普選運動で主張されるような普遍的な権利としての選挙権というより、在郷軍人の特権としての選挙権というニュアンスが強かったようです。軍務が納税など他の国民の義務よりも重いものとされており、軍務という大きな義務を果たした在郷軍人には、その反対給付として選挙権を付与するのは当然である、というロジックになっていました。
こうした選挙権獲得のロジックを提供した弁士の一人に細野辰雄少将がいます。彼は、兵庫県内で行われた演説のなかで、1904年頃参謀本部に在職していた時に、選挙権について研究した経験があると発言しています。たしかに、明治末から大正前期にかけて、政府や一部政党政治家の間で、軍務への反対給付という文脈を意識した選挙権拡張案が検討されており、細野の研究もその一環だったのではないかと思われます。在郷軍人選挙権獲得運動は、こうした過去の経験や知識の蓄積の上に展開していたのです。
これらの組織による運動とは別に、将官・高級将校クラスの軍人も「在郷軍人協会」(全国組織)や「北斗会」(名古屋)などを結成し選挙権獲得運動を展開しました。彼らの運動はさきに見た分会単位の運動とは異なり、将来自分たちが選挙に出馬する際の票田として、在郷軍人の有権者が増えることを期待していたのです。実際、在郷軍人への選挙権付与によって1500万人以上の有権者増加が見込まれていました。
在郷軍人選挙権獲得運動の結末
在郷軍人選挙権獲得運動が盛り上がる中、運動により会の統制が乱れることを恐れた川村景明帝国在郷軍人会長が、運動の主張を受け入れて在郷軍人への選挙権付与を求める意見書を陸海相経由で首相に提出します。また、政友会が第47議会に参政権獲得の建議書を提出するなど、その影響が広がってきました。ところが、その後第48議会で普通選挙制度導入がふたたび争点化し、第二次憲政擁護運動の結果男子普通選挙制度が成立しました。これにより25歳以上の在郷軍人は原則として有権者となったため、在郷軍人の選挙権獲得運動はその意義を失いました。
中野良(アジア歴史資料センター研究員)