昭和19年(1944年)10月24日から26日にかけて、レイテ沖海戦が行われました。
 米軍は、昭和19年(1944年)10月17日、日本軍が守備していたフィリピン諸島のレイテ島に上陸を開始しました。10月24日から26日にかけて、日本艦隊と米艦隊はフィリピン諸島の周辺で戦い、日本艦隊は大きな損害を受けて撤退しました。

  • 資料1は、レイテ沖海戦についての記事が掲載された、昭和19年(1944年)11月8日付の『写真週報』346号です。2画像目の記事「勝機確保の追撃戦」は、「比島東方海面で行はれた『フィリピン沖海戦』」について「ほんとの意味での『現代の艦隊』勢力の決戦的激闘であった」と解説しています。
  • 資料2は、レイテ沖海戦後の状況についての記事が掲載された、昭和19年(1944年)11月22日付の『写真週報』348号です。2画像目の記事「直視せよ!レイテの攻防」は、「比島沖海戦」(フィリピン沖海戦)後の戦いの様子を伝えています。
  • 資料3は、外務省政務局が作成した昭和19年(1944年)12月29日付の極秘文書『世界情勢の動向(第二巻第五十一報)』の「二、大東亜各地」です。この資料は、12月末のレイテ島を含む「比島及中部太平洋方面」などの戦況を報告しています。
  • 資料4は、有田八郎が行った、昭和20年(1945年)7月9日付の昭和天皇に対する上奏の内容をまとめたものです。この資料は、有田八郎の上奏の内容が、「現下ノ情勢」において「ガダルカナル、サイパン、レイテ」などの「失陥等相次ク不利ニ拘ラス国民ノ戦意ハ愈々昂揚」しているが、「ガダルカナル以来ノ戦局ガ我ニ不利ナルコト政府ト雖モ又之ヲ認」めており「諸般ノ情勢ヲ綜合観察シテ頗ル悲観的ナラザルヲ得ザルヲ悲ム」として、「大局ヲ洞察シテ時ニ忍ブベカラザルヲ忍ブコトモ必要ナルベク臥薪嘗胆ヲ期シテ一時後退」することもやむを得ない、というものだったことを伝えています。






Japan Center for Asian Historical Records