昭和19年(1944年)7月4日、大本営はインパール作戦の中止を決定しました。
 インパール作戦は、インド東部のインパールに進攻すべく、ビルマの日本軍が同年3月8日に開始したものです。この作戦の目的は、連合国の援蒋ルートの遮断と、イギリス支配下のインドにおける反英運動の高揚でした。しかし、日本軍は補給の問題を軽視したため、その将兵は栄養失調に陥りました。そして、英軍の反撃を受けた結果、日本軍は大きな損害を被って退却します。7月4日、大本営はインパール作戦の中止を命令しました。インパール作戦における日本軍の死傷者は、約7万人にのぼるといわれています。

  • 資料1は、中国やビルマにおける戦況についての記事が掲載された、昭和19年(1944年)7月5日付の『写真週報』328号です。3画像目の記事「激化する航空戦」には、大本営陸軍報道部による、中国から飛来するB29などの爆撃機の話題、ビルマにおける「レド公路」(中国とインドとを結ぶ道路)や連合国軍の反撃などの報道を伝えています。
  • 資料2は、台湾総督府外事部が作成した、昭和19年(1944年)7月25日付の部外秘文書『南支南洋時報』第37号の抜粋です。この資料は、「インパール概観」「アツサム鉄道」「レド公路」「アツサム地方の歴史と文化」に関する情報を伝えています。






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