昭和16年(1941年)11月27日、第73回大本営政府連絡会議が開かれ、アメリカ・イギリス・オランダに対する戦争を開始するための手続きなどが決定されました。資料1には、宣戦布告にいたる手続きの過程が記されています。その内容は以下の通りです。
第一 連絡会議ニ於テ戦争開始ノ国会意志ヲ決定スヘキ御前会議議題案ヲ決定ス。(十二月一日早朝)
第二 連絡会議ニ於テ決定シタル御前会議議題案ヲ更ニ閣議決定ス。
第三 御前会議ニ於テ、戦争開始ノ国家意志ヲ決定ス。(十二月一日午後四時)
第四 宣戦布告ノ件閣議決定ヲ経、枢密院ニ御諮詢ヲ奏請ス。(意志決定ニ関係ナシ)
(Y日後陸海軍ノ要請ニ依リ即日決定)
第五 左ノ諸件ニ付閣議決定ヲ為ス。
一 宣戦布告ノ件枢密院議決上奏後、同院上奏ノ通裁可奏請ノ件。
(裁可)
一 宣戦布告ニ関スル政府声明ノ件。
一 交戦状態ニ入リタル時期ヲ明示スル為ノ内閣告示ノ件。
一 「時局ノ経過並政府ノ執リタル措置綱要」ニ付発表各庁宛通牒ノ件。
第六 左ノ諸件ハ同時ニ実施ス。
一 宣戦布告ノ詔書公布。
一 宣戦布告ニ関スル政府声明発表。
一 交戦状態ニ入リタル時期ヲ明示スル為ノ内閣告示。
一 「時局ノ経過並政府ノ執リタル措置要綱」ニ付各庁宛通牒発表。(宣戦布告ノ直後ニ発スルモ可ナルヘシ)
同時に、「戦争遂行ニ伴フ国論指導要綱」(資料2)、「会談成功ノ際ノ国論指導要綱」(資料3)も決定されました。
資料4の議事録によると、まず御前会議に重臣が出席すべきか否かについての議論が行なわれています。これについては、結論として、本来国策の責任を負う立場にない重臣は御前会議には出席せず、同月29日に重臣を宮中に集めて東条内閣総理大臣より国策についての説明を行なう、ということに決しています。なお、この議論においては東郷外務大臣のみが異論を唱えたと記されています。続いて、宣戦をめぐる事務手続きと、国論指導要綱が可決されています。最後に、開戦詔勅案について、「更ニ研究シ意見アラバ書記官長取纏メテ修文スルコト」に決したとされています。
なお、この『杉山メモ』の記述では、会議の開かれた時間が午後2時から午後4時となっていますが、東郷外務大臣の動静を大臣秘書官が記録した資料5には、東郷が午前10時から連絡会議に出席したこと(5画像目)、さらに午前11時からは、中華民国(汪兆銘政権)駐日大使の信任状捧呈式に参加したことが記されており(5画像目)、ここに『杉山メモ』との明らかな食い違いが見られます。
資料6の『機密戦争日誌』でも、この連絡会議については大きく取り上げられています。まず書き出しは「連絡会議開催 対米交渉不成立」となっており、この会議において日米交渉に決定的な見切りが付けられたことが強調されています。続いて、ここで審議決定されたことが3点挙げられています。1点目は、12月1日に予定されている御前会議において国策を決定すること、これに先立って連絡会議と閣議を行なうことで、2点目は、重臣の御前会議への出席問題について決した内容です(上記の『杉山メモ』の記述内容と同様)。そして3点目は、実際にアメリカとの戦争が開始された翌日に宣戦布告を行なうことです。この後、項を改め、「果然米武官ヨリ来電 米文書ヲ以テ回答ス全ク絶望ナリト」、すなわち、日本が待ち受けていたアメリカの「乙案」に対する最終的な回答がもたらされ、その内容は絶望的なものであったという知らせが、駐アメリカ武官より「果然」(思ったとおりに)届いた、と述べられています。このアメリカの回答とは「ハル・ノート」のことです(ここでもその4項目の内容が挙げられています)。回答の内容については、「米ノ回答全ク高圧的ナリ 而モ意図極メテ明確 九国条約ノ再確認是ナリ」「対極東政策ニ何等変更ヲ加フルノ誠意全クナシ」として、アメリカ側に日本に対する譲歩の姿勢が全く見られないことが指摘され、「交渉ハ勿論決裂ナリ」と述べられています。そして、このアメリカの回答によって日本側は開戦に踏み切ることが容易になり、また国民の決意も固まり国論も一致しやすいだろうとし、「芽出度芽出度之レ天佑トモ云フベシ」と、この事態を歓迎する姿勢があらわにされています。