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そんなことはありません。戦後、役立ったり高く評価されたりした研究もたくさんあります。
戦前戦中期の科学技術というと、ゼロ戦(零式艦上戦闘機)や戦艦大和などの軍事技術ばかりを思い浮かべるかもしれませんが、そのような兵器開発とは直接に結びつかない様々な研究がおこなわれていました。
戦前および戦中期における科学技術の一例として、日本で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹の研究、抗生物質ペニシリンの開発、コシヒカリの育成の3つを紹介します。
湯川秀樹は、1929(昭和4)年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業した理論物理学者です。
後年にノーベル賞受賞理由となる研究をおこなったのは、湯川が大阪帝国大学で講師をしていた1930年代前半のことでした。
当時、原子の中核にある原子核は、陽子と中性子からできていることがわかっていましたが、プラスの電荷をもつ陽子と電荷をもたない中性子がバラバラにならないことに疑問をもった湯川は、陽子と中性子をつなぎとめる働きをする粒子の存在を理論的に予測したのです。
湯川の計算によれば、この粒子の質量は電子のおよそ200倍で、電子と陽子の重さの中間であることから、「中間子」と名付けられました。
1947(昭和22)年にイギリスの研究者が実験によって中間子の存在を証明すると、1949(昭和24)年、湯川はノーベル物理学賞を受賞します。
日本人として初めてとなるノーベル賞受賞の快挙は、敗戦に沈む多くの日本国民を勇気づけました。
画像1 米国コロンビア大学客員教授時代の湯川秀樹(1949年)Yennie Donald「Recollections of Yukawa」
『日本物理学会誌』第37巻第4号(1982年)より
2つ目の事例はペニシリンの開発です。
世界初の抗生物質ペニシリンは、1942(昭和17)年に海外で最初に実用化されました。
日本では、ドイツから届いた学術雑誌により関連研究が進んでいることを知った陸軍軍医少佐稲垣克彦が主導して、1944(昭和19)年初頭に研究を開始しました。
ペニシリンの研究は兵器開発そのものではありませんが、戦場の傷病兵を治療するという軍事上の必要性から研究が注目されたのです。
日本製ペニシリンは「碧素(へきそ)」と名付けられました。
これは、ペニシリンが青カビから抽出されたことにちなんだ名称で、「碧」は濃い青色のことです。
戦時下での研究は、軍の資金と多くの研究者の協力により急速に進み、ペニシリンを精製することに成功しましたが、残念ながら大量生産するには至りませんでした。
国内生産されたペニシリンが、感染症の特効薬として、多くの人々を救うこととなるのは1946(昭和21)年以降のことです。
戦時中のペニシリン研究は、戦後にアメリカの援助のもとでペニシリンを国内生産する際の基盤となったのです。
3つ目の事例はコシヒカリの育成です。
現在日本で最も多く生産されているお米であるコシヒカリは、戦時中に交配され、戦後に育成された品種です。
1944(昭和19)年、新潟県農事試験場において、農水省技官の高橋浩之主任技師がコシヒカリの両親(農林1号と農林22号)の掛け合わせに成功しました。
農林1号は戦前の主品種で早生・多収量、農林22号は稲の主要病害である「いもち病」に強いという特徴がありました。
交配された種子は、翌年から栽培される予定でしたが、戦時下の人手不足のため栽培することができず、1946(昭和21)年以降に栽培され選抜と育成が進められました。
その結果、生まれたのが「越南17号(後のコシヒカリ)」です。
「越南17号」は味と品質は良かったものの、背丈が高くて倒れやすく「いもち病」に弱いという欠点がありましたが、栽培技術で克服できると判断され、1956(昭和31)年、農林省により「農林100号」として登録されました。
この時、新潟県でコシヒカリと命名されたことから、現在の品種としての「コシヒカリ」が誕生したのです。
その後、コシヒカリの栽培は全国へと広がり、1979(昭和54)年にはついに、作付面積、日本一の品種になりました。
科学技術の研究は、その時すぐに役立つものばかりではなく、10年、20年と時を経たのちにやっと社会から評価される場合もあります。
みなさんの身の回りの「もの」を調べてみると、戦前戦中期における科学者、技術者の研究成果がまだまだあるかもしれません。