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Q&A

いまのハチ公は2代目ってホント?

はい、本当です。初代は戦争中に溶かされてしまいました。


渋谷のシンボルでもあり、近年は「HACHI」として世界を感動させたハチ公。


待ち合わせ場所といえばハチ公の前、と言われるぐらい有名な渋谷駅前のハチ公像ですが、実は今いるのは2代目なんです。


生前から忠犬として有名だったハチ公を記念して、昭和9年(1934)4月に銅像が渋谷駅前に設置されました。


当時から待ち合わせ場所として使われ、みんなに愛されてきたハチ公像ですが、ある時、お国のためにと旅立っていったのです。




戦争の長期化にともない、物資が不足し、さまざまな物資の生産や利用が制限されるようになりました。


日本は資源に乏しい国ですから、輸入に頼らなければなりません。


国外から輸入できなくなると、国内から集めるしかありません。


そこで目をつけられたのが、家庭にある資源です。


特に金属は兵器に使われますから、重要視されました。1938(昭和13)年に「国家総動員法」(Ref.A02030075800)が出され、家庭の金属も動員の対象となり、政府声明で不要不急の金属回収を呼びかけました。


それを受けて、隣組や部落会、国防婦人会などの組織を通じて、任意ですがマンホールの蓋や鉄柵などの回収が始まりました。


現在、顔だけが残っている上野の大仏は、大正12年(1923)の関東大震災の際に頭部が落下して解体されていたため、この時に顔以外の部材が供出されました。


1941(昭和16)年に入ると、緊迫した国際情勢に対処し、重要資源の自給体制を確立するためとして「金属類回収令」(昭和18年8月12日勅令第667号、Ref.A02030328800)が出され、官民所有の金属(鉄や銅、それらの合金)の回収が始まりました。


銅像や寺院の梵鐘、家庭の鍋や釜、ブリキのおもちゃに至るまで回収の対象となり、文化財を含む多くのものが半ば強制的に供出させられました。


家庭にある金属類は「家庭鉱脈」「街の鉱脈」と呼ばれ、郵便受けや火鉢、洗面器なども回収の対象となりました。


政府の情報誌である『写真週報』165号(Ref.A06031076000)では、世界各国の金属回収の取り組みを紹介しています。


金属不足は日本だけではなかったのですね。





画像1 初代ハチ公像の「出陣式」
『毎日新聞』昭和19年10月13日

金属回収は鉄道の線路にまでおよびました。


例えば国鉄(現JR)御殿場線の国府津-沼津間は複線でしたが、「不要不急線」として半分持っていかれてしまい、今でも単線のままです。


1943(昭和18)年には「銅像等ノ非常回収実施要綱」(Ref.A03023598500)が出されたり、「金属回収本部」が設置されたりし、東京都では「金属回収工作隊」が編成されて、全国各地で金属回収が強化されました。


同年には「金属類回収令」(Ref.A14101090100)も改正され、鋼や鉛なども回収対象となりました(1945年にはアルミニウムも対象となります)。


タンスの取手や窓の格子、ネクタイピンに至るまで、ありとあらゆる日本全国の金属類が回収される中、多くの反対や抗議がありましたが、1944(昭和19)年10月にハチ公像もついに供出されることになり「出陣式」がおこなわれました(画像1)。


しばらくは倉庫で保管されていたようですが、1945(昭和20)年8月14日に浜松の工場で溶解されて、機関車の部品となってしまいました。





画像2 占領軍兵士にも愛される2代目ハチ公像
『戦後70年 よみがえる日本の姿~オーストラリア戦争記念館所蔵写真展~』
(昭和館、2015年)

戦後、ハチ公像の復活を望む声は多く、国内だけでなく、海外にもよく知られたハチ公のエピソードのおかげでGHQの愛犬家のサポートもあり、初代ハチ公像を制作した安藤照氏の子息、士氏によって作りなおされ、1948(昭和23)年8月に同じ渋谷駅前に再建されました(画像2)。


ハチ公像は残念ながら戻ってきませんでしたが、金属回収からなんとか戻ってきた銅像もあります。


日本橋の三越本店入り口にある二体のライオン像は、1914(大正3)年にロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下にある獅子像をモデルに英国の彫刻家によって制作されました。


やはり、金属類回収令によって海軍省に供出されましたが、紆余曲折を経てネルソン提督に縁のある東郷平八郎を祀る東郷神社に奉納されて溶解を免れました。


そして、戦後になり、三越の社員が発見して日本橋三越に戻ってくることができました。


このライオン像は関東大震災の際も焼け残っており、震災と戦争を乗り越えてきたことで「日本橋の生き証人」と呼ばれているそうです。




この金属回収について、当時の回収を呼びかけるパンフレット『鉄と銅 特別回収早わかり』(財団法人戦時物資活用協会、1942年)では、下記のような説明がなされています。


「さあ皆さん!愈々皆さんの家庭にある鉄や銅又は銅合金(真鍮、砲金、唐金、洋銀等)を国家のお役に立てる時が来ました。その準備は恐らく皆さんもう充分出来て居ることと思います。そうして国家の為に供出された鉄や銅などは、それぞれの回収路を通って、やがて製鉄所や製錬所へ運ばれます。其処で主として軍需品になって、鉄類なら軍艦、戦車、大砲、弾丸、鉄兜、剣等となり、銅類なら弾丸の薬莢、軍用電線や、飛行機の部品になるのです。(中略)今度の鉄銅特別回収は、右の増産設備が全部完成するまでのいわばつなぎとして行われるものであって、家庭の皆さんにも其の意味で、少しの間辛抱を願わなければなりません。勿論現用品を供出するのですからこれを手放すには大いに愛着もあるでしょう。不便を感ずる場合もあるでしょう。けれどもこれは皆国家の為なのです。国家あっての私達です。そしてもう1、2年もすれば、このことをやがて笑顔で思い出す時が来るでしょう。」(一部抜粋)


すでに70年以上たちました。いまだに笑顔で思い出す時は来ませんね。

【 参考文献 】

  • 斎藤弘吉『日本の犬と狼』(雪華社、1964年)
  • 『東郷神社誌』(東郷神社、1984年)
  • 『株式会社三越85年の記録』(三越、1990年)
  • 『特別展ハチ公』(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、2013年)

【 参考資料 】

  • 国家総動員法ヲ定ム(Ref.A02030075800
  • 金属類回収令ヲ定ム(Ref.A02030328800
  • 「写真週報」165号(Ref.A06031076000
  • 銅像等ノ非常回収実施要綱(Ref.A03023598500
  • 金属回収本部官制○金属回収本部回収官ノ特別任用ニ関スル件ヲ定メ○大正二年勅令第二百六十二号任用分限又ハ官等ノ初叙陞叙ノ規定ヲ適用セサル文官ニ関スル件中ヲ改正ス(Ref.A14101090100