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はい。戦時中は、射撃訓練などが必修となり、さらに1943年からは大学生に対する徴兵猶予が停止され、在学中の学生も戦場に送られることになりました。
現在、大学進学率は50%を超えていますが、戦前、大学まで進学することができたのは、ごく一部の人々だけでした。
大学だけでなく専門学校などを含む高等教育機関全体でみても、進学率はわずか5%程度で、特に女子の大学進学は、極めてまれなことでした。
日本女子大学校(現在の日本女子大学)や東京女子大学など、「女子大学」の名称をもつ学校は当時から存在していましたが、法制度上は女子専門学校であり、大学令で定められた大学ではありませんでした。
そうした限られたエリートであった大学生の学生生活にも、1930年代後半になると、戦争の影響がおよぶようになってきました。
日中戦争下での労働力不足を補うため、1938(昭和13)年以降、小学校(正式には尋常小学校)から大学までの生徒や学生を動員して工場勤務や農作業などの「集団勤労作業」が課されるようになったのです。
時局がますます緊迫してきた1941(昭和16)年からは、さらに学校の修業年限を短縮する非常措置がとられました。
戦前の大学では、正規の修業年限は3年間でしたが、1941(昭和16)年度には修業年限が3か月間短縮され、1942(昭和17)年3月卒業予定の者は1941(昭和16)年12月に繰り上げ卒業させられることになったのです。
さらに1942(昭和17)年度から1944(昭和19)年度の卒業者について、修業年限が6カ月間短縮されました。
画像1 東京帝国大学における軍事教練、1941年(『写真週報』198号、Ref.A06031079300、1-3画像目)
戦争の影響は大学での教育内容にもおよび、1939(昭和14)年には、軍事教練が大学での必修科目となりました。
軍事教練の内容は、各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、軍事講話、戦史で、銃剣をもって敵陣に突撃したり城壁を乗り越えたりする戦場運動、機関銃の射撃訓練などでした(画像1参照)。
さらに1943(昭和18)年3月29日には、文部省体育局通牒の「戦時学徒体育訓練実施要綱」(大政翼賛会調査局編『錬成要綱集粋』1943年、国立国会図書館デジタルコレクション)により、特に男子学生については卒業後にただちに軍人となることができるような資質を育成するため課外の体育訓練が一層強化され、戦場運動・射撃などの戦技訓練、体操・陸上運動・柔道・剣道・相撲・水泳などの基礎訓練、航空機の操縦や自動車の運転などの特技訓練が実施されました。
画像2 出陣学徒壮行会、1943年(『写真週報』296号、Ref.A06031089100、7画像目)
深刻な兵員不足を補うため、ついに1943(昭和18)年10月12日には「教育に関する戦時非常措置方策」(Ref.A14101146600)が閣議決定され、理工系および教員養成系の学生を除く一般学生の徴兵猶予が停止されました。
それまで徴兵を猶予されていた大学生も、戦場に送られることとなったのです。
出陣する学生を見送るための壮行会が、全国各地で催され、東京では1943(昭和18)年10月21日、明治神宮外苑競技場で文部省主催の出陣学徒壮行会が開催されました。
開催場所となった明治神宮外苑競技場は、当時の日本を代表する競技場で、現在、2020(平成32)年の東京オリンピックのメインスタジアムとなる新国立競技場の建設が進められている場所にありました。
東京の学徒出陣壮行会には、冷たい秋雨の降るなか、首都圏の大学、高等学校、専門学校77校の出陣学徒と、それを見送る女子学生ら5万人の観客が集いました。
東条英機内閣総理大臣の訓示、見送る学生による送辞の後、出陣学徒の代表として東京帝国大学文学部の学生が読んだ答辞の一節、「生等(せいら)、もとより生還を期せず」(私たち学生は、はじめから生きて帰るつもりはない)はよく知られています。
その後終戦までの2年弱の間に、数万人の大学生が、修業年限の短縮や徴兵猶予の停止のために、兵役に就いたといわれています。
出陣学徒は、人員不足となっていた下級指揮官や航空機搭乗員、経理担当の士官などとして最前線に送られました。
南方や沖縄などの激戦地で戦死した方も数多くいます(写真3参照)。
学びたくても学ぶことがかなわなかった戦時下の学生たちのことを思うと、好きなだけ学ぶことができる現在の幸せを改めて実感させられます。