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日本で最初の修学旅行は、1886(明治19)年2月に、東京師範学校(現在の筑波大学の前身の一つ)が千葉県で行ったものと言われています。
ただし、この時はまだ「修学旅行」という名称は使われておらず、「長途遠足」という名前で、野外の軍事教練と文化財の見学等の2つが合わさったものでした。
「修学旅行」という名称が初めて現れたのは、同年12月の『東京茗渓会雑誌』第47号の「修学旅行記」という記事だとされています(東京茗渓会は東京師範学校の同窓会)。
1888(明治21)年8月、文部省(現在の文科省)は「尋常師範学校設備準則」(Ref.A15111594400)を定め、そこに修学旅行について明記しました。
これが、日本の法令に「修学旅行」の文字が明記された最初のものとなりました。
これ以降、各地の各種学校に修学旅行が次第に広まっていきましたが、行き先や目的等について、何か統一的な規定があるわけではありませんでした。
1901(明治34)年3月、文部省令第3号により中学校令施行規則が公布され、その第13条で、兵式体操・軍事教練が体操科の中に位置づけられ、従来修学旅行と一体化していた行軍訓練的な側面が分離されることとなりました。
これによって、修学旅行は現在のものにより近い、名所旧跡や産業施設等の訪問見学を主体とするものになっていきました。
大正期に入ると、国家主義的教育の一環として、軍施設や軍艦等の見学や、中国東北部及び朝鮮半島への修学旅行も数多く行われるようになりました。
また、行き先として伊勢神宮や橿原神宮等が選ばれることも多く、皇室に連なる敬神思想の育成もまた当時の修学旅行の目的とされました。
その後時代が戦争へと向かっていく中で、1940(昭和15)年6月に、文部省は修学旅行の制限を通牒し、1943(昭和18)年の東京第一師範学校附属国民学校の記録を最後に、修学旅行は中止されました。
戦後になると、食糧不足と交通事情の悪化という悪条件の中でも、早くも1946(昭和21)年には各地の学校で修学旅行が行われた記録が残っています。
このころの旅行には米を持参する必要があり、それは修学旅行も例外ではありませんでした。
しかしながら、戦後復興の進展と共に、修学旅行の実施校も増加し、1953(昭和28)年には、全国中学校の87%、高校の65.7%が修学旅行を実施しました(ただし、必ずしも全ての生徒が参加できていたわけではありませんでした)。
1958年(昭和33)年の学習指導要領の改訂で、修学旅行は学校行事の中の教育活動の一つとして位置づけられ、ここで初めて全国的に法規上明確なものとなりました。
その後、修学旅行専用列車が作られるなど、修学旅行は量的にさらなる拡大をしていきました。