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戦前にも一部の学校で、貧困児童を対象にした食事の無料配給がありましたが、国の制度として大規模に学校給食が導入されたのは、1946年以降のことです。
日本で一番初めに学校給食をおこなったのは山形県の私立小学校で、貧困児童に対する無償の施しとして1889年に実施されたといいます。
また戦時中にも、栄養不足の児童に対して食事が無料配給されたことがありましたが、国の制度として大規模に学校給食が導入されたのは、敗戦後の1946年以降のことです。
戦後、深刻な食糧難が広がるなか、育ち盛りの多くの子供たちは空腹にあえいでいました。
こうした子供たちの栄養状態をなんとか改善しようとして始まったのが学校給食でした。
学校給食のための食糧は、占領軍からの食糧供出や、アメリカの民間救援団体「アジア救済公認団体(通称ララ、LARA :Licensed Agencies for Relief in Asia)」からの援助などでまかなわれました。
画像1 1947年の献立例
ミルク(脱脂粉乳)、トマトシチュー
(独立行政法人日本スポーツ振興センターHPより)
1946年12月、都内の学校で初めて実施された学校給食のメニューは、小さくきざまれたダイコン、ニンジン、鮭、マカロニの入ったクリームスープでした。
1947年1月からは、全国の都市部における約300万人の児童を対象に、週2回以上、ミルク(脱脂粉乳)とトマトシチューなどの学校給食(画像1参照)が実施されました。
当時の給食は「補食給食」と呼ばれるもので、米飯などの主食については、各自が自宅から持ってくることとなっていました。
給食費は一食につき一円五〇銭ほどで、これは現在のお金で、15円~30円程度にあたります。
給食の実施が軌道に乗ると、日本政府は連合国軍総司令部(GHQ)に給食無償化を提案しましたが、GHQは、「パンを自らの労働によって得ることを子供たちに教えるべきだ」と主張して、日本政府の提案を退けたといいます。
画像2 1952年の献立例
コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、鯨肉の竜田揚げ、千切りキャベツ、ジャム
(独立行政法人日本スポーツ振興センターHPより)
その後、1950年には、主食(コッペパンもしくは米飯)を含む「完全給食」(画像2参照)が実施されるようになりましたが、1951年のサンフランシスコ講和条約調印を受けて、ガリオア(アメリカの占領地域救済資金:Government and Relief in Occupied Areas Fund )による小麦の贈与などが打ち切りになると、学校給食を継続することは困難となりました。
給食費の値上がりにより、給食を中止する学校が続出したのです。
この時、危機に陥った給食制度を救ったのは、給食継続を求める国民の声でした。
国民からの声を受けて、給食に対する国庫補助が広がり、1954年には学校給食法の制定により、給食に明確な法的根拠が与えられるようになったのです。
給食に対する国の補助等が法律によって明文化されたことで、学校給食は戦後の日本社会に根付いていくこととなりました。
1946年12月24日に、アメリカの民間救援団体「ララ」から給食用物資の贈呈式がおこなわれたことを記念して、毎年12月24日は「学校給食感謝の日」と定められています。
ただし、年末は冬休みと重なるため、現在では、教育効果を促進する観点から、1か月後の1月24日から1月30日までの1週間を「学校給食週間」と位置付けて、毎年、全国の小中学校などにおいて、学校給食の意義や食育などをテーマに様々なイベントをおこなっています。
文部科学省や農林水産省、内閣府等の官庁の食堂でも、給食のメニューをもとにしたランチを提供するなどのイベントを開催していますので、機会がありましたら訪れてみてはいかがでしょうか(本年度のイベントにつきましては、各省庁のHPなどでご確認ください)。